【ヒミツの時間】KISSの法則 第9話 兄の懺悔
KISSの法則・対抗意識
翌日の金曜日。
朝起きたら、お兄ちゃんは出かけた後。
昨日、早く帰ってきたからかな。
確かめたいことがあったのに。
会社の業務は、今日もてんてこ舞い。
「麻衣、ちょっと。助けてぇ」
なんて。
得意、不得意を考慮せずに、フラットな状態で底上げするため
香里さんが、いろんなコに業務を分散させたらしく。
昨日のミユキちゃん効果もあって、いろんなコからお呼びがかかった。
私が仕上げる仕事の分量は少し軽くなったのだけど、やっぱり残業で。
お兄ちゃんにメールする。
〈残業します。
それから、土曜日の午後お願いします〉と。
そして。
今夜も、榊課長に送ってもらうことになった。
「あー、あのさ」
言いづらそうな榊課長。
「予備知識とか、あったら教えて?
その……にいちゃんの、さ」
はい、と頷いて。
ゆうべお兄ちゃんに伝えた、榊課長のスペックを思い出す。
「えっと、名前は立花伊織。36歳です」
「ああ」と相槌。
その後に続く沈黙。
「……だけ、かよ」
唖然とした声。
「お兄ちゃんが……
情報はそれだけでいいって。
他は会って直接訊きますって、言うから。
私づてだと、きっと仲を取り持つようなことを言っちゃって
惑わすことになるから、だと。思います」
正直に打ち明けたのに、小さく舌打ち。
もう、なんだか……
会う前から険悪で。
お兄ちゃんは、お付き合いに反対なのかもしれないし。
榊課長は、不機嫌だし。
「くっそ。
オトナの余裕ってトコか。
……わかった。
オレもその情報だけで勝負する」
「勝負?」
訊きかえす私に、ウインクして。
「そ。
麻衣を賭けた大勝負。
諦めるわけにはいかないからな」
心臓が、急にとくとく主張しだす。
「んじゃ、さ。
手土産は何がいい?」
私の頬をそっと包む、榊課長。
優しげに細められた、瞳。
吐息まじりの掠れた、声。
だめ、くらくらしそう。
「お、おおお。おきづかい、なくっ」
やだ、もう。はずかしい。
「ガキの頃は、気軽に友達の家に遊びに行ったりしたけどさ。
さすがに、そういうわけにはいかないだろ。
手ぶらじゃまずいんじゃないの?
こういうの初めてで、よくわかんないけどさ」
見上げると、紅い耳朶。
“いろいろあった”榊課長の初めてに、顔が綻ぶ。
思いついたのは、お兄ちゃんのお気に入りの紅茶。
そのお店と銘柄を答えると。
「覚えられないから、メールしといて。
明日の午前中、買ってくる」
せっかくのお休みを1日潰してしまうようで、申し訳なくて。
「一緒に行きましょうか?」
何の気なしに申し出た私を、榊課長はじっと見つめて、ちょっと考える。
「……いや。いい。
一緒に出掛けて帰ってきたら、にいちゃんもいい気はしないだろ。
ちゃんと会って。
にいちゃんに認めてもらってから、な。
……初デートは」
で、でーと?
あの、憧れのデート、ですか。
きゃぁぁぁぁあっ、という叫びは、心の中だけに留める。
はしたないもん。
KISSの法則・兄への反論
家に帰ったけれど、お兄ちゃんは不在で。
さすがに2日続けて早く帰れないよね。
どうしても、今夜のうちに確かめなくちゃいけないことがある。
持久戦を覚悟して、簡単な夜食を用意した。
昨日はごちそうだったから……
中華粥と卵スープくらいで、ちょうどいいかも。
下ごしらえして、帰ってきたら仕上げようっと。
あ、そうだ。
紅茶のお店と、茶葉の種類を榊課長にメールしなきゃ。
でも。
お兄ちゃんの答えによっては、必要なくなるかもしれない。
このメールがムダになりませんように。
祈りながら、送信した。
お兄ちゃんは、かろうじて日付が変わる前に帰宅した。
待ち構える私に、大げさに肩をすくめて。
「夜更かしは美容の敵ですよ、おさるのお嬢さん」
なんて、澄まし顔で憎まれ口。
いつもなら、きーきー怒って終わりだけれど。
今夜の私は違うんだからっ!
「お兄ちゃん、あのね
ゆうべの宿題、なんだけど。
ちゃんと考えて、今の、私なりの答えが出たの」
少しだけ、目を見開くお兄ちゃん。
「でも、あの2択って……
どっちも私が榊課長を好きじゃないって意味でしょ?
どうして?
お付き合いに、反対なの?」
「いいえ。そうではありませんよ」
問いただす私に、くすりと妖艶な笑み、プラス、流し目。
「最初から反対なら、榊課長に会わせられないよ。
お互いに嫌な思いするだけでしょ?」
お兄ちゃんの後について、質問の嵐。
今日は言いくるめられないんだから、と。
はやる気持ちが止められない。
だって。
どちらかを諦めるなんて、考えられない。
二人とも大切だから。
「お夜食をいただけますか?」
キッチンをちらりと覗いて、テーブルへ。
あ、すっかり忘れてた。
興奮しすぎ、私。
こんなんだから、おさるさん扱いなんだよね。
夜食を仕上げる間に、落ち着きを取り戻して。
一緒にテーブルにつく。
「麻衣は、本当にオトナになりましたね。
少し前まで、私の言葉に頷いていただけでしたのに」
うん、まぁね、と。言葉を濁す。
ゆうべ、気づいたとこなんだけど。
「私は……
麻衣をそう育ててしまったことに、恐れを抱いてました。
疑うことを知らずに、ただ世間の悪しきものに怯えるだけで……
抗体ができることなく、免疫力の低い心になってしまった、と。
若気の至りとはいえ、自分のエゴを責め続けました」
お粥を口にしながら。
静かに微笑み、語られる、重い真実。
背筋が寒くなる。
「きっと、いつか。
麻衣は、些細なことで深く傷ついてしまうでしょう。
その傷は、ともすれば致命傷にもなりかねません。
私は自分の蒔いた種から伸びたツルに、首を絞められ……
後戻りできなくなってしまったのです」
浮かべた苦悶の表情から、目が離せない。
学生時代、私がうじうじ悩んでいたこと。
輪の中に、自ら飛び込む勇気がなくて。
勝手に傷ついて。
オトコの人そのものに怯えて、お兄ちゃんに相談したこと。
私の“変わっている”と評される全てが、お兄ちゃんを苦しめ続けていた。
「もはや。
麻衣を穏やかで平和な世界だけで、生活させるしか手はない、と……
ずっと手元に置いて、私が守るしかない、と……
覚悟を決めていたのですよ」
ですから、と。
つらそうに目を伏せて。
「目の届かない就職先など、考えられませんでした」
だから。
私の秘書というのはいかがですか? と。
ことあるごとに打診して。
内定いただいたことを嬉々として報告する私に、淋しそうに笑ったんだ、ね。
KISSの法則・兄の懺悔
「ところで、麻衣」
お兄ちゃんはまっすぐ私を見据えて。
「榊さんは、あなたの受信メールが私に転送されていることを、ご存じなのでは?」
弾かれたように肩が揺れる。
「どうして、そう……思うの?」
掠れる声。
もしかして榊課長は気づいているのかも、と思い当たる節があったから。
でも、どうして。
お兄ちゃんがそう感じるんだろう。
「お付き合いをしている割には、メールのやり取りが少なすぎるでしょう。
ああ、いえ、別に。
邪推しているのではありませんよ」
邪推っていうのは、私が携帯メールを故意に避けてること、だよね。
何でも、お見通し。
俯いたままちらっと見上げると、お兄ちゃんはにっこり笑っていた。
その笑顔が怖い。
「麻衣が彼に伝えたにせよ、彼が何らかの方法でそれを知ったにせよ。
どちらでも構いません。
ただ。
誤解されるのが、忍びないのです」
悲しげに視線を落として。
「私が異常だと疑われるのは、甘んじて受けましょう。
どんな理由があるにせよ、実際、そう見えるでしょうから」
お兄ちゃんの言葉に、大きくかぶりを振った。
「理由は私の弱さ、でしょ?
だったら、異常なのはお兄ちゃんじゃないよ」
お兄ちゃんは、過保護だったかもしれない。
けれど、私を守るためにそうせざるを得なかっただけ。
「いいえ、私が。
私自身が抱える闇から目を逸らすため……
麻衣の成熟を封じ込めたのです」
抱える、闇?
険しい横顔に、言葉を失う。
「その話も、いずれお話ししなければなりません。
私の過去に端を発し、揃いすぎるほどの過程を踏んで。
結果、女性ではなく少女のまま……麻衣は成人したのです」
コドモっぽいことを、単にからかう言葉じゃない。
もっとシリアスな、話。
「ですから、麻衣が異常扱いされるのは……
きわめて心外です」
強い口調に不安を覚え、お兄ちゃんの瞳を覗き込む。
「ちがうの。
榊課長は携帯メールが苦手なんだって」
でも、と。おずおず続ける。
「もしかしたら? って、思ったことはある、よ」
榊課長の真剣なまなざし。
あの、言葉。
「だけど異常だなんて思ってない、はず。
だって。
私が何か抱えてるなら、一緒に背負う。
だから相談して、って
榊課長は、そう、言ってくれたから」
そう……ですか、と。
複雑な表情でお兄ちゃんは呟く。
「彼に、麻衣の携帯を見せましたか?」
ううん、と。首を振る。
「あ、でも。
メアド交換の時、高橋課長に……」
「預けたんですね。
その時、お誕生日は訊かれましたか?」
小さく頷く。
なんでそんなこと訊くんだろうって、思ったっけ。
「では、その高橋さんという方から、榊さんに伝わっている可能性がありますね」
「あ……。ごめんなさい」
俯いて、謝る。
そんなこと、思いもよらなかったから。
「麻衣、顔を見せてください」
お兄ちゃんの大きな温かい手のひら。
小さい時のように、そっと頭を撫でて。
「謝るのは、私の方ですよ」
その声が、切なく揺れていて……
首を横に振るのが精一杯。
「申し訳ありません。
私がどうして麻衣を囲うのか。
説明しても、理解していただけないかもしれません。
“一緒に背負う”という榊さんの言葉を、信じないわけではないのですが……」
いずれにせよ、と。
視線を鋭く変えて遠くを見つめる、お兄ちゃん。
「麻衣が非難されるいわれはありませんから。
安心なさい」
覚悟を決めたような視線に、ただ戸惑うだけ。
「ああ、質問の答えがまだでしたね」
いつもと変わらない、お兄ちゃんの柔らかい声。
殺気立った雰囲気が幻のよう。
「お付き合いには、反対ではありませんよ」
「ほんとっ?」
はしゃいだ声に、一瞬眉をしかめるお兄ちゃん。
ああ、また。
私、コドモに戻ろうとしている。
「……真夜中すぎですよ」
そんな私を笑顔でたしなめて。
「私が出した宿題の“トリック”に気づいたのなら、麻衣は合格です。
麻衣が、榊さんのことを心から好ましく思っているという証(あかし)ですから」
私、は……合格?
トーンを下げて、首をかしげる。
「ええ。
ですから、半分だけ合格です」
そんな。
さも、当然のように言われても……
「じゃ、残りは?」
わからないから訊いたのに。
お兄ちゃんは、呆れたようにため息をもらす。
「いいですか、麻衣。
お付き合いというのは、二人で愛を育むものですよ。
残りの半分は、お相手の榊さんしだいに決まっているでしょう」
「榊課長、しだい……」
確かめるように呟く。
「簡単なことです。
私の出す条件をクリアすればいいだけ、ですから」
さらっと言うけれど、条件の難易度にもよるでしょ?
にわかに不安の暗雲が胸を塞ぐ。
私の目を見つめ、静かに口を開くお兄ちゃん。
「私の意図は、二人の急速な接近を阻むこと。
少しだけ、足踏みをしてほしかったのです」
急速な接近……
足踏み……
訊きかえそうとする私を瞳で制して。
「理由は明日。
榊さんと麻衣に伝えますから」
それだけ言うと、エレガントに手を合わせ。
ごちそうさまでした、と。席を立った。
今までも、今夜のように。
厳しい表情で、意味深な言葉を紡ぐ姿を、何度も見てきたのに。
私はただ、守られるだけで。
深く考えることもなければ、
ましてや力になる、なんて。
思いつきもしなかった。
幼すぎて、無力で。
私に相談して、なんて。
言ったところで、お兄ちゃんを困らせるだけで。
それが、痛いほどわかっていたから。
……だから。
お兄ちゃんが張り詰めた空気を、ふっと緩めるたびに。
胸を撫で下ろして……
目を逸らして……
何もなかったフリをして……
やり過ごしてしまった。
コドモっぽさは、私が無意識に演じてきたもの。
敢えて気づかないフリをして、無邪気に笑ってみせた。
『女性ではなく、少女のままで……』
あの言葉を聞いても、違和感はなくて。
お兄ちゃんの変化を目ざとく見つけた瞬間、私はコドモに戻る。
瞳の色が翳るとき。
淋しそうに笑うとき。
なにか言いかけて口を噤むとき。
きっと。
榊課長が関わることで。
私たち兄妹に変化が訪れようとしている。
お兄ちゃんの前では、コドモのままでいたい私。
榊課長の前では、オトナになりたい私。
吉と出るか、凶と出るか。
それを見極めるまで、足踏みを……?
だから、急速な接近を阻んだ……?
どちらにしても、もう戻れない。
榊課長へのキモチは、加速している。
もう。
私は逃げない、諦めない。
お兄ちゃんの抱える闇からも。
榊課長と一緒に描く未来からも。
賽(さい)は、投げられたのだから。