【ヒミツの時間】KISSの法則 第20話 兄の計らい
KISSの法則・どこにも行かないで
リビングに灯るあかり。
お兄ちゃん、帰ってる。
「お兄ちゃん、ただいまっ」
今にもどこかへ行ってしまいそうで……
不安になって、ぱたぱたと駆けよった。
「おかえり、麻衣。
ずいぶんと慌てて……どうかしましたか?」
いつも通り。
ソファに座って微笑むお兄ちゃんに、胸を撫で下ろして。
微かな異変に心が尖る。
「パソコン……お仕事してるの?」
リビングでは仕事をしない主義、だったはず。
ええ、と。困ったような顔をして。
「紅茶をいただきたくてリビングで待っていたんですよ。
実は……少し業務が立て込んでいましてね」
今まで、一度だってこんなことなかったのに。
「麻衣も、これから残業が増えるのでしょう?」
うん、と。狼狽えながら頷く。
「遅くなったら、榊さんに送っていただくこと。
一人の場合はタクシーを使いなさい」
業務整理。
引継ぎ。
まさか……引退?
立つ鳥、跡を濁さず。
すべてが、姿を消す準備に思えて。
「残業して、夕食の準備では大変ですね。
私も忙しくなりそうなので、食事はどこかで済ませましょう」
「待って、お兄ちゃん」
焦ってお兄ちゃんににじりよる。
「夕食の時間は少し遅くなるかもしれないけど、家で食べよう?
朝、下ごしらえすれば、大丈夫だよ。
私、外食苦手だし。
バランスも大事、だし。
それに。
……お兄ちゃんと、ごはん食べたい」
私の顔を見つめたお兄ちゃんは、ふっ、と笑って。
「お夜食くらいの時間になりますよ」
うん、うん、と慌てて頷く。
「ちゃんと起きて待ってる。
だから……無理しないで」
“どこにも行かないで”
その悲痛な叫びは、心にしまった。
KISSの法則・ヒミツの関係
翌、月曜日の朝。
お兄ちゃんと、久しぶりの朝ごはん。
「今朝は車で送りましょう。
ちょうど、そちら方面に用事がありますから」
お兄ちゃんの言葉に、「ほんと?」と歓喜の声が出た。
月曜日の電車は、なぜかいつもより混むんだもん。
ただ、心配なのは……ちょっと目を引く車ってこと。
流線型が綺麗な、オトナっぽいシルバーのスポーツカー。
「少し離れたところで、降ろしてあげますよ。
いつもより到着時間が早いので、大丈夫だとは思いますが」
私の不安なんて、なんでもお見通し。
お兄ちゃんの予想通り、いつもより30分以上早い到着。
ラッシュアワーを避けるために、普段から早い電車で出社しているから……
みんなが出社する時間より、1時間くらい早い。
「近くで大丈夫でしょう」
お兄ちゃんの言葉に甘えて。
会社の正面玄関から5メートルくらい過ぎたところ、社員通用口に近い位置で車を停めてもらった。
「ありがとう」
お礼を言って降りようとしたら。
「麻衣、お待ちなさい」
私を止めたお兄ちゃんが車を出る。
え、え? どうしたの?
フロントガラス越しにゆっくり横切る姿。
そのまま、流れるように助手席のドアを開けて。
「どうぞ」
差し伸べる手。
きょとんとしたまま、お兄ちゃんの手を取って車から降りた。
「お仕事、頑張るんですよ。
頑張りすぎはいけませんが」
それから、と。耳元でトーンを下げて囁く。
「私のことを訊かれても、曖昧に流しなさい。
兄だと明かしてはいけませんよ。
恋をする二人には、酷な条件を出してしまいましたからね。
私からのささやかな贈り物です」
爽やかに手を上げて、運転席へ。
なに、今の。
朝日を浴びて疾走するシルバーの車。
ぽかんと見送る私。
KISSの法則・噂の…カレ
「麻衣! おはよう」
背後から声を掛けられ、恐る恐る振り向くと。
……ミユキちゃん。
素直で、ポジティブ。
先輩から可愛がられて、同期にも仲良しがたくさん。
後輩にも慕われている。
会社内の人間関係を熟知していて、別名、“噂の種の仕入れ人”。
「おはよう…は、ははは、早いね、ミユキちゃん」
「な~に、慌ててんの、麻衣。
麻衣に教えてもらったとこ、おさらいしようと思って……」
本当にポジティブで前向き。
嬉しくて笑顔がこぼれた。
「で。
あのイケメン御曹司風の人は、誰?」
笑顔がぴきん、と固まる。
「あの……人は、ね……」
兄、と言ってはいけない。
曖昧に流すこと。
真っ向から訊かれているこの状況で、どうやって?
誰か、助けて。
「おはよ。麻衣とミユキ」
願いが通じたのか、香里さん参上。
「おはようございます、香里さんっ!
麻衣が男の人に送ってもらってたんですよ。
すっごい、イケメン!
車はロータス、エヴォーラ!」
朝のオフィス街に響き渡ってるよぉ。
お願いです、助けてください。
香里さんに、縋るような目を向ける。
“お・に・い・ちゃ・ん、です……”と。
ミユキちゃんの背後から、くちパクで伝えると。
一瞬目を瞠り、にやりと笑った香里さん。
ああ、と呟いて。
「噂の、あの……“カレ”ね」
微妙な言い回しに、曖昧に笑ってみせた。
「ミユキ、エクセルの恩人ウブ子に初の春到来なのよ。
邪魔して壊れたら、責任重大だからね。
噂は……そうね。
ひっそり流すこと。いいわね?」
はい、了解ですっ、と。ミユキちゃん。
そしておもむろに私の手を取って。
「麻衣、よかったね。応援するから。
今夜は、お赤飯だわ~」
「あんたは、お母さんかいっ」
ツッコむ香里さん。
通用口方面へスキップするミユキちゃんの背中を、香里さんと二人で見送った。
KISSの法則・ささやかな贈り物
「お兄さんてば、粋な計らいするじゃない?」
香里さんの言葉に、頭の中に“?”が並ぶ。
「あの様子だと、土曜日の顔合わせは上々だったんでしょ?」
「はい、まぁ」と首を捻りながら答える。
どうして上々だってわかるのかな?
考えながらぼんやり社員エレベータに向かっていたら、ぐいっと腕を引っ張られた。
引き込まれたのは、背の高い観葉植物の陰。
ぎゅうっ、と。一瞬抱きしめられて、すぐ離れる。
見上げると、榊課長。
「おはよ、麻衣。
ぼんやり歩いてると、誘拐するぞ」
私、咄嗟に反応できなくなってる。
合気道の動きが取れないのは、腕が鈍ったから?
それとも、榊課長だから?
「榊ッ!!!」
香里さんの鋭い咆哮(ほうこう)。
肩をいからせてずんずん歩いてくると、榊課長と私の間に立ち塞がった。
「油断も隙もないわ。
せっかく、麻衣のお兄さんが、あんたたちのために演出してくれたっていうのに」
演出? 私たちのために?
そういえば“ささやかな贈り物”って、言ってた。
「ああ、知ってる。上から見えた。
それで、降りて待ち伏せたってわけ」
悪びれずに平然と“待ち伏せる”なんて言うもんだから、香里さんの手がわなわな震えだした。
「待ってください、香里さん」
慌てて香里さんの手を取る。
「あの、演出ってどういう意味ですか?
お兄ちゃんは、『訊かれても兄だと明かしてはいけない』って。
『ささやかな贈り物だから』って……」
「あのね、麻衣」
ため息まじりにこちらを向いた香里さん。
「ミユキの言葉を借りると、“御曹司風のイケメン”が、麻衣を会社に送ってきました。
……と、なると。
人目が少ない時間帯でも、噂にはなるでしょ。
あの派手な高級車だもの。
『兄です』って麻衣が言えば、噂は収束するけれど。
そうするなって言われたんでしょ?」
はい、と頷く。
「つまり。
周到な目くらまし&牽制(けんせい)作戦よ。
たとえ二人でいるところを見られても、榊との仲を疑う人間なんていないわ。
その上、麻衣にちょっかいを出すオトコがいなくなるでしょ。
お兄さん、グレードが高すぎるもの。
榊も、他のオトコも、みんな霞んじゃう」
お兄ちゃん……
いつも、私を助けてくれて。
そして、今日もまた。
だめ、泣いちゃいそう。
「グレードなら負けてねぇぞ」とか。
「所詮リーマンの遠吠えでしょ?」とか。
罵り合う二人がぴたりと止まる。
「ごめん、ごめん。
麻衣……泣かないで。
そうだ。残業の時、抹茶アイス買ってあげるから、ね?」
香里さん、私そんなにコドモじゃないですよ、と。
心の中でむくれながらも、抹茶アイスに緩む頬が止められない。
榊課長はそんな私をじっと見て、踵(きびす)を返す。
「今日は定例の企画3課の会議だぞ。
遅れるなよ」
そう、言い残して。