【ヒミツの時間】KISSの法則 第3話 トラップ
KISSの法則・百戦錬磨 榊課長の謀(はかりごと)
翌朝、10時半。
オフィスで念押しされた“空メール”を送信し終わって、ほっと息をついた時。
「麻衣、ついてらっしゃい」
いかにも姐御っぽい香里さんの一言に、背中がびくぅん、となる。
「なに、どうしたの?」
挙動不審な私に訊ねる香里さん。
「何でもないです」
慌てる私。
急ぎの仕事。ただし香里さんには内緒の。
榊課長がそんな風に言うから、心臓がバクバクしてる。
メモを手にして向かった先は、企画部方面。
榊課長に会えるかも、というわくわくで、スキップしそうになる。
企画部は、なぜかがらんとしていて。
「静かですね」
首をかしげる私に、香里さんが説明してくれる。
「不定期だけど、朝、1課と2課は企画会議なの。
6階の中会議室でね」
向かうは企画3課のブース。
まだ足を踏み入れたことのない、ヒミツのパーテーション内。
「榊、おつかれ~。
昨日はごち、ね」
香里さんが、榊課長に声を掛ける。
書類に文字を書き込んでいた榊課長は、「ちっ」と舌打ちして顔を上げる。
舌打ち……。
話しかけちゃ、いけない雰囲気?
顔を上げた榊課長は、意外にもにこにこしていて。
「空耳?」
首をかしげる私に、香里さんが囁く。
「舌打ちは、あたしに。
あの笑顔は、麻衣に。
てか、麻衣限定」
……なっ!!! もぉぉ。
「昨日は、ごちそうさまでした」
香里さんの冷やかしにどぎまぎしながら、お辞儀。
ゆうべ、お兄ちゃんにも報告したし。
さっき、ちゃんと“空メール”も送ったし。
忘れてることは、ないはず。
「榊もごちそうになったんじゃないの~?」
背後から、高橋課長。
「麻衣ちゃんと、あの後さ」
高橋課長はにやりと笑って。
「はぁ~、マジで?」
すかさず、香里さんの怒った声がかぶさる。
あの後?
あ、そういえば。
あの後の、カフェもタクシーも……
私ってば、ぼぉっとしてて。
「あっ、ごめんなさいっ!
あの後も全部、払ってもらっちゃいました……
あの、あの……遅ればせながら。
ありがとう、ございましたっ」
わたわたする私に。
気圧されたように目を瞠る、高橋課長。
満足げに私の頭を撫でる、香里さん。
そして。
頬杖をついてそっぽを向く、榊課長。
なんでしょうか。
この三者三様、バラバラな反応は。
一番気になるのは、榊課長で。
……怒ってる、のかな?
「やだ、見て。榊が照れてる~」
あ。え? 照れてるの?
なにゆえ。
「これって、男女の機微以前の問題でしょ。
由々しき事態じゃん」
呆れたように私を見て、高橋課長は肩を竦める。
高橋課長、ちょっと苦手。
少しだけ、だけど。
香里さんのカレで、榊課長の盟友。
仲良くしたいけれど、言葉に棘がちらほらと。
なにげに嫌われてるような。
「榊、なに書いてんの?
路線変更届?」
あ、もう。届けるんだ。
さすがに、デキるひとは処理が早い。
「路線変更って。
“氷の榊”から“激甘の榊(ただし麻衣限定)”に?」
香里さんの言葉に、顔から湯気が出そうになる。
「ばーか。定期券だよ。
ま。あながち、それも間違ってないけどな」
クールなトーンに反した、ホットな内容。
“それも間違ってない”だなんて……
それって、それって。
……やだ、もぉっ!
「麻衣と一緒に通勤するからな。
文句は言わせないぞ」
香里さんを睨んで言い切る、榊課長。
「お、挑戦状だね?」
高橋課長は、涼しい顔して焚きつける。
「どうぞ、ご自由に。
でも、社内では接触禁止よ。
それから、噂を立てられた時点で……」
そこで、言葉をのむ香里さん。
時点で……?
どう、なっちゃうの?
「その時点でオープンにすれば、丸く収まるだろ?」
ふふん、と。
榊課長は鼻で笑って、どや顔。
香里さんは真っ赤になって、肩をいからせてる。
「姐さん、あきまへんえ。
そないに興奮しはったら。
また、血圧が上がりますやろ」
なぜか京都弁らしき言葉で宥める、高橋課長。
「せやから言うたでしょ?
もたもたしてたら、先越されますよって」
ぐぬぅ~、と呻く香里さん。
「ふーん、なるほどな。
思惑が見えたぞ。
高橋は、新堂との結婚。
新堂は、麻衣をシンジョに残したい。
……だろ?」
榊課長は二人を見遣って。
「じゃあ。オレの条件をのんでもらおうか」
記入していた変更用紙をデスクの上で、とんっと揃えて。
眼光鋭く、おもむろに口を開く榊課長。
「企画3課のチーム編成には、必ず麻衣を入れること。
シンジョに出すオレの依頼は、麻衣のみが処理。
打ち合わせは、この時間。
1課と2課が企画会議中に2人で行う。
場所はこのブース内。
……以上」
しばらく黙りこんでいた香里さんが、苦い顔で言葉を絞り出す。
「2人で打ち合わせはムリ、よ。
企画以外の人間の目もあるでしょ」
「ま、そーだな」
榊課長は軽くいなして。
「じゃ、新堂もついてこい。
企画1課の空いたデスクで、高橋と結婚の打ち合わせでもすればいいだろ」
「榊~、さんきゅ!」
高橋課長が握手を求める。
その手をさりげなくスルーした榊課長は、香里さんを指差した。
「つまり、表向きはシンジョ所属だが、実際は企画3課専属とする。
いいな。
文句も却下もナシだ。
新堂に後継者ができれば、結婚に支障はない。
新堂も、目の届く範囲で麻衣を守れる」
唇を噛んだ香里さんと、満面の笑みの高橋課長。
二人が頷くのを見届けた榊課長は、満足げに笑って視線を私に移した。
「麻衣は、異存があるか?」
「あり、ません」
小さく呟き、項垂れる。
「どうした?」
「流れるような展開で。
あまりの鮮やかさに……びっくり、しました」
ため息まじりの言葉が、こぼれた。
企画3課専属ならば。
榊課長のプレゼンが、間近で見られるかも。
苦虫を噛み潰したような顔をする香里さんには悪いけれど……
わくわく、うずうずしてくる。
「榊はいつも、こうよ。
矢継ぎ早に詰め寄って。
こっちが口をはさむ余地もない。
もう、ぐうの音も出ないほど、言い負かすんだもん。
麻衣、喧嘩になったら絶対勝てないわよ」
肩を竦めた香里さんが呟けば。
「喧嘩しねーよ」と榊課長。
「喧嘩にならないもんね」と嗤う高橋課長。
あ、また。棘。
つまり、それは。
私が無知でトロいからってこと。
反論、できないし。
「実際のプレゼンもこんな感じですか?」
気を取り直して、訊いてみる。
「そうだな。
あれはクライアント相手だから、こんなに追いこまない。
クライアント自身が納得して自分で選ぶように、じわじわ仕向ける」
ん? どっかで体験したような。
まるで、そう。
お兄ちゃんと私、みたいな。
私自身が決めたと思ってることは……
もしかして仕向けられてる?
……まさかぁ。
でも。
強制されないけど、いつの間にか自然にそうなってる、かも。
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KISSの法則・トラップ
「あ、そーだ。高橋。
さっき、さんきゅって言ったよな」
榊課長の声で、我に返る。
「言ったけど……今度はなに?」
気乗りしない声で返す、高橋課長。
「アドレス交換する方法、教えろ。
っていうか、あれだ。
別に覚えなくてもいいな。
麻衣のメアド、これに登録しといて」
スマホを指差す。
「はぁぁ?
そんなのQRコード作って読ませればいいじゃん」
ぁあ? と。凄む榊課長。
これは口癖だから、慣れなくちゃ。
ドキドキしながら、自分に言い聞かせる。
「そんなの知らねーよ。
必要ないことは、覚えないタチだって知ってんだろ?」
「なんで必要ないんだよ」
軽く睨む高橋課長。
「企画は営業と違って、迅速さより、じっくり派だし。
プレゼン以外は、オレは社内にいるだろ。
PCの社内メールで用が足りるんだよ」
あ、社内メール。
ぴきんっと、揃って固まって。
つい、顔を見合わせた。
「ん?」
眉を上げる香里さん。
視線を逸らして、やり過ごすしかない。
「と、とにかく!
感謝は言葉じゃなく、対価で貰いたいタイプなんだよ、オレは」
何とか、切り抜けなきゃ。
「えっと。
香里さん、アドレスの登録、教えてください」
香里さんだけに見える“ほんわか麻衣ビーム”なるものを出すべく、甘えてみる。
お兄ちゃんにお願いごとをする時を思い出しながら。
だって、メアドの交換は私の希望だもん。
「あんたたちは、もうっ。
はいはい、麻衣。
じゃ、あたしのメアド登録しとこうね」
かろうじて、切り抜けミッション達成っぽい。
「新堂、余計なことすんな。
オレのを登録しろ」
「麻衣、ガラケーなの?」
榊課長の抗議を無視して、私の携帯を手にする香里さん。
「まだ、使えますし。
特別、スマホが必要ではないので」
ふぅん、と呟きながら、私の携帯と香里さんのスマホを高橋課長へ。
それを見た榊課長も、自分のスマホを高橋課長に押し付ける。
「司、登録しといて。
あたしのと。
しょうがないから、ついでに榊のも」
ラジャ、と。親指を立てる高橋課長。
「麻衣ちゃん、携帯にロックかけてないの?」
ロック? 首をかしげた私に。
「パスワードを設定して、勝手に見られないようにするんだよ」
はぁ、とため息。
また、無知だって呆れられた。
「ちょっと見てもいい?」
はい、と。小さく頷く。
「ふ~ん、誕生日は3月1日ね」
はい……、と。
小さく返しながら。
なぜメアド交換に誕生日? と首をかしげる。
「わ。履歴、“伊織”ばっかり。
ああ、たまに“お母さん”もある」
すみません、交友関係が狭くて。
「伊織って誰だ?」
低い声。腕を組んだ榊課長。
「お兄ちゃんです。
登録してくれたのがお兄ちゃんなので。
たぶん、自分のこと“お兄ちゃん”って入れるのはどうかと思って、名前で登録したんでしょう」
「家族だけだね。
学生時代の友人は?」
あ、あの、と。言葉に詰まる。
正直に話して困ることはないけれど、また高橋課長に呆れられそうで。
「携帯の存在を内緒にしてたんです。
持ってること知られたら、もっと頻繁に合コンに誘われると思って」
「合コン、行ったことあるのか?」と不機嫌な声。
「えと。何回か、っていうか。
何回も、騙されました。
女の子だけだよって言うから安心してたら、男の子がどやどや入って来たり……」
「なっ! 麻衣ぃ……。
頼むぞ、もう」
頭を抱える榊課長。
「過去の話に嫉妬するなんて、器が小さいわね」
冷ややかな香里さんの声に、榊課長はそっぽを向いた。
「それで?」
私の携帯をいじりながら、高橋課長はどうでもよさそうな声音で先を促す。
うぅ、苦手。
「……最終的には、お兄ちゃんを呼ぶんですけど。
結局、女の子達はそれが目的だったみたいで。
『伊織さん、まだ?』って、すぐ言うんです」
「麻衣のお兄さんって、イケメンなんだ?」
香里さんの弾む声に、ぎろりと視線を向ける高橋課長。
「お前のオトコも、やけに器がちっせえな」
榊課長がすかさず反撃する。
「うわ、居場所も結構チェックされてるね」
「あ、はい。まぁ」と曖昧に頷く。
「お店の場所、説明できないので」
でも、お兄ちゃんがチェックするのは、“今も”なんだよね。
「未だにチェックされるのは、私が方向音痴で、兄が心配性だから、です」
誤解がないよう、すぐ補足。
無知でトロい私のことはともかく、お兄ちゃんを悪く言われるのは心が痛む。
「いくら合気道の使い手でも、方向音痴じゃ心配よね」
香里さんがフォローしてくれる。
よかった。
学生時代の友人はこの話を聞くと、みんな一様に眉を顰めて。
そんなのおかしいよ、異常だよ~、と。
口々に非難されたから。
「……え?」
真顔になった高橋課長が、携帯と私を交互に見る。
あ。まさか。
見つけちゃいました?
昔の写真を見つけて、きゃあきゃあ騒いだ去年の暮れ。
お兄ちゃんが、紙の写真を撮って、写メしてくれた。
……赤ちゃんの私。
ぷくっとしてて、ほっぺが紅くて。
口をてろんって開けて、ふにふに笑ってる。
……今とあまり変わらなくて。
はずかしい。
成長してないね、って絶対言われる。
「……榊、麻衣兄(まいあに)は強敵だよ」
ぼそりと呟く高橋課長に。
写メじゃないみたい、と。ホッとして。
まさか……、と。不安がよぎる。
「新堂には勝てねーだろ?」
榊課長の言葉に、俯いてため息をもらし、首を振る高橋課長。
「香里なんて、ざこキャラ。
きっと、最強のラスボスだよ」
……。
……。
……。
……?
沈、黙。
天使が通った、なんて。とても言えない重い雰囲気。
「あ。もう、こんな時間。
麻衣、戻るわよ」
香里さんの一言で、時が動き出す。