【ヒミツの時間】 KISSの法則 第38話 2つのタスク
KISSの法則・抜け駆け
月曜日は1日お休みをいただいて。
お兄ちゃんがずっとつきっきりで看病してくれた。
お薬もちゃんと飲んで、夕方にはそこそこの体調に。
「明日は会社に行くんですか?」
お粥をふうふうして口に運んでくれる、お兄ちゃん。
はずかしいけど、小さな頃みたいで嬉しくて。
最近ずっと帰りが遅かったから……こんな時くらいはね、なんて。
理由をこじつけて甘えた。
「行かないと、香里さんがてんてこ舞いだよ。
それに、仕事溜まっちゃうし」
公式じゃないのに、課長補佐って言葉に浮かれて。
いろんなことに手を出しちゃったから。
「では」
お兄ちゃんはにっこり。
「明日の朝は送ってあげましょう。
ゆっくりお休みなさい」
翌朝は、少しだるさが残るくらいで。
うつしちゃいけないし、まだ声が万全じゃないから、マスクを着用。
お兄ちゃんには、前よりも早い時間に送ってもらった。
アケミさんに見つかったら、アウトだもん。
きょろきょろしながら、ささっと降りて。
見えなくなるまで手を振って。
会社に向かおうとしたら、香里さん。
「麻衣、大丈夫なの?」
「はい、すみません」
マスク越しに、もごもご謝る。
「この時間に会えて、ちょうどよかったわ」
香里さんはなんとなく周囲を気にする素振りで。
「ちょっと昨日、すったもんだがあってね。
榊に言いくるめられちゃう前に、麻衣に確認を取りたかったの」
誰にも見つからないように細心の注意を払って、シンジョの指導室へ。
「麻衣は『軽い扁桃腺炎だ』って榊から聞いて、昨日は協定を結んだの。
電話はだめ。
メールはしてもいいけど、この件は耳に入れないって。
ただし……」
香里さんはいたずらっぽくウインク。
「協定は昨日限り。今日は解禁なの。
……たぶんね」
はぁ、そうですか、と。
頷きながら、不安がよぎる。
榊課長のご機嫌が斜めになりそう。
「あのね、落ち着いて聞いて」
香里さんが手をぎゅっと握るから、かえって緊張してきちゃう。
「クール・イベの社内デモンストレーションが急遽決まって。
それが……来週金曜なの」
今日は火曜日。
あと、10日くらい。
「『榊一人でプレゼンしなさいよ』って言ったんだけど。
『ウォーム・イベの前哨戦として、どうしても麻衣をプロジェクタ担当で使いたい』って。榊のヤツ、言い張るのよ」
え? 私っ。
「『社内で経験積めるなんて、またとないチャンスだ』って。
『もちろん、麻衣が恥をかかないように特訓するけど……
たとえ失敗しても学べる場所だし、いい経験になる』って聞かないの」
KISSの法則・ふたりのボス&ふたつのタスク
あと10日でクリアするには、ハードルが高い。
だけど……
いきなり社外でプレゼンすることを考えれば、社内プレゼンがいい鍛錬になるっていうのもわかるし。
「あたしね。
『なに、バカなこと言ってんのよっ!』って。
昨日はいきり立っちゃったんだけどさ。
ひと晩経って、気持ちが動いてる」
あ。それは……
榊課長の手ですよ。
「10日しかない、じゃなくて。
10日もあるんだもん。
自分に置き換えたら絶対受ける話よね、って」
はい、と。
大きく頷いてみせた。
「麻衣の業務は、シンジョに各々分散させる。
お兄さんがフェイクになってくれているなら、榊と業務で繋がってても問題なし、でしょ。
榊も麻衣も仕事に夢中になるタイプだから、怪しまれる方向には脱線しないと思うけど……」
自分に言い聞かせるように、一つ一つ指折りチェックする香里さん。
リハーサル中は扉を開けておくって、約束したし。
「逆にね。
熱が入りすぎて榊が暴言をはくんじゃないか、とか。
麻衣が自信喪失したり、麻衣自身を追い込み過ぎたりしちゃうんじゃないか、って。
そっちの方が不安なの」
心配してくれる優しい香里さんに、うるうるしてしまう。
「体調も、もちろんだけど……」
香里さんは眉を下げて。
「メンタルでつらくなったら、ひとりで抱え込まないで。
麻衣の上司は、あたしだから。
榊の手伝いをさせてあげてるだけだから、いつでも帰ってきなさい」
にっこり笑って、頭をぽんぽん撫でてくれる。
「ありがとうございます。
頑張ってきます」
じゃ、あとは、と。
静かに椅子を立つ香里さん。
そのままそっと指導室のドアノブに手をかけて。
一気にすっと開く。
「盗み聞きしてる榊と打合せしなさい」
扉の外、半分だけ背中が見える位置に榊課長。
腕を組んで壁にもたれかかっているようで。
ふん、と特別驚きも悪びれもせず、顔を覗かせた。
「盗み聞きなんて、そんな趣味悪いことしないぞ。
指導室って、防音だろ。
新堂こそ、抜け駆けして協定を破っただろうが。
話が終わったなら、さっさと企画3課に来い」
はぁ、と。
大きなため息、苦笑いで肩をすくめて。
いってら~、と。
呆れたように手を振る香里さん。
「新堂も一緒だ。
お前、立花の直属の上司だろ。
いいのかよ、オレが勝手に決めて。
今後のスケジュール調整だぞ」
振り向いて、嬉しそうに頬を緩ませる香里さん。
無愛想で傍若無人に見えて、相手の気持ちの芯をくむ人。
榊課長は、人心掌握に長けている。
颯爽とオフィスを横切り、企画3課に向かう背中。
この背中を見失わないように、遅れを取らないように。
私は、ひたすらついていくだけ。
私らしく。
温かい気持ちを胸に。
時には力になれたらいいけど。
企画ブースに入った途端。
歩調をゆっくりにして、追いついた私に振り向く。
見上げたら、優しく微笑んでいて。
「今更だけど」
榊課長は少しかがんで目線を合わせてくれた。
「おはよ、麻衣。
ムリすんなよ。オレがフォローするから」
背中を追いかける私を気遣って、立ち止まって微笑んでくれる。
大好きな榊課長。
一緒だったら、どんな難問だって乗りこえられる。
今、私たちに課せられたタスクは2つ。
オフィシャルでは、企画3課のプレゼン・デモンストレーション。
そして……
プライベートでは、弟さんとの対峙と和解。
KISSの法則・Keep It Simple and Short
「今日から金曜日までのスケジュールだ」
香里さんと私に、A4用紙が渡される。
オフィシャルな形式ばったタスクスケジュール。
火曜日から来週金曜日までが縦軸に。
24時間の目盛が横軸に。
「24時間は要らないでしょ」
呟く香里さんに、ちぃっと舌打ちする榊課長。
「睡眠時間と食事の時間も、記入させるんだよ。
すぐムリするから、ま……立花は」
ふぅん、なかなかいい心がけね、と。
軽くあしらう香里さん。
「じゃ、これは?
2か所だけ、もう予定が入ってる」
香里さんが指で示す場所を、目で辿って縦軸と横軸を確認。
「……これって!」
思わず声が出る。
水曜日、19時から22時。
「一番に確保しといた。
貴重な充電時間だから」
にやりと笑って。
イヤか? と問う。
「イヤじゃ……」
ないけど。
言葉にしたら、調子に乗っていろいろされそう。
あう。いろいろ、って。
やだ、私ってば。
「はいはい。もうおなかいっぱいだから。
スケジュール決めて、さっさと散会するわよ」
ひとりでぶんぶん首を振る私に、香里さんは呆れ顔。
「ま、そうだな。
1日2時間。いや、3時間くれ」
「そんなもんでいいの?」
目を丸くする、香里さん。
ため息まじりに香里さんを睨む、榊課長。
「大体な、新堂は大げさなんだよ。
プレゼンって、長くて30分だぞ。
だらだらやっても意味がない。
いわゆる……何の法則だっけ? 立花」
ひゃ、と。
いきなりのご指名に肩が上がる。
私のテンパりように、香里さんも面白がっちゃって。
「麻衣、なんの法則?
香里、知りた~い」
もう、やだ。
榊課長と香里さんって、はらはらするくらい言葉の応酬を繰り広げるのに……
こういう時は見事な連係プレイで、私を追いつめて。
そっちがその気なら、負けないもん。
目を瞑って息を整える。
「KISSの法則、です。
“Keep It Simple and Short”
つまり、“単純で短く”っていう文章の頭文字を取ったもので。
自分の考えや意見を伝えるときのテクニックのひとつと言われてます。
プレゼンテーションでは、ずばっと斬りこんで印象に残ること。
“詳しく細かく”よりも、“シンプルで短く”が良しとされていて……
だから。
ムダを見極めて、削ぎ落とすこと。
ポイントを押さえつつシンプルに仕上げること。
これが重要なんです」
香里さんをまっすぐ見つめて、落ち着いて伝える。
ぽかんと口を開ける、香里さん。
くっくっ、と榊課長は忍び笑い。
「榊って。
私情じゃなくて、ほんとに麻衣を欲しがってたんだ。
ビジネス上のパートナーとして」
ぁあ?
威嚇する榊課長。
「最初っから、そう言ってるだろ」
不機嫌そうにため息。
「クール・イベについて言えば。
パワポで作ったデータはあるし、立花はプロジェクタ操作が主になる。
前にも言った通り、操作手順は難しくない」
異議ありといったふうに、眉を上げる香里さん。
難しくないなら時間を必要としないでしょ? って。
言いたいんだと思う。
だけど、榊課長は鋭い眼光だけで異議を却下。
喋らなくても、火花が飛び交ってて。
「問題は、プレゼン担当と息が合うか、ってとこ。
調和が取れて一体化できてないと、分ける意味がない」
榊課長の静かな言葉で、バチバチ爆ぜる火花は収束を迎えた。
今まで、榊課長がひとりでプレゼン発表者とプロジェクタ操作を兼任していて。
前にその話を聞いた時、私なりに情報収集もした。
その上で、自分に課せられているのが単なるプロジェクタ操作じゃないことも感じている。
いいわ、と。
香里さんは観念したように呟いて。
「企画3課の榊課長に任せます。
タスクスケジュールは、予定が埋まった段階でコピーを提出のこと。
空き時間にシンジョの仕事を入れます。
それから1日の業務が終わったら結果を記入して、あたしに見せて。
残業申請は、直属の上司の役目だから。
いいわね」
席を立って、ブースの出口に向かう香里さん。
「ただし……」
ぴたりと足を止めて、振り向いた。
「ちゃんと成功させて、笑顔で戻って来なさい」
「ありがとうございますっ!」
私の声に背中を向けたまま手をひらひら振る香里さん。
うん! 頑張らなくちゃ。
KISSの法則・厳命
「いちいち芝居がかったヤツだな、新堂は」
ぼやきながらも、ちょっと嬉しそうな榊課長。
「よし、じゃ。
オレのスケジュールに合わせて、1日3時間埋めてくぞ」
二人で相談しつつ、打ち合わせをしながら。
前からの希望を伝えるのは今しかない、と。こぶしを握る。
「お願いがあるんですけど」
おずおず切り出してみた。
「うん?」
優しい笑顔にほっとしながら。
「一度、クール・イベのプレゼンを通して見せてください。
それで……あの。
できれば、動画を撮らせていただきたいんですけど」
ん?
眉を上げるから、つい言い訳を重ねちゃう。
「私一人に実演するのは嫌でしょうけどっ。
流れを掴みたいんです。
その、ヘンな意味じゃないんです……よ」
「落ち着けよ」
苦笑いする榊課長。
「別に嫌だなんて思ってない。
勝手が違うから、とちるかもしれないけど。
それよりもさ。
“ヘンな意味”って、なんだよ」
ブラック・スマイル……
わかってて、言わせようとしてる。
こういうときって、スルーしても、絶対白状させられる。
経験上、わかってる。
「ですから。
コレクションにしようとか。
わぁ、かっこいいって、こっそり楽しんだりとか。
出張の時、淋しくて観たりとか……」
素直に口を割ってから、ちょっと考える。
「出張の時は、泣きながら観ると思いますけど。
最初から、そういうつもりじゃなくて。
純粋に向学のためです」
抵抗もせずすんなり白状したことに驚いたのか、押し黙る榊課長。
「立花、お前な」
低い声。
怒ってる?
どこで怒らせちゃったっけ。
「あのな」
ため息まじりで頭を抱える榊課長。
「『泣きながら観る』って……
そういうグッとくるようなことを、打合せ中に口にするなよ。
オレが“立花”って呼んで、必死に気を逸らしてるのにさ……」
自分が訊いたくせに。
私、観念して素直に白状しただけなのに。
むぅ。納得いかない。
「明日水曜日、もう一回ちゃんと聞かせろ。
いいな?」
そんな風に凄まれても……。
「そんで。明日までに体調を完璧にしろ。
明日の19時からは、マスク着用禁止だぞ」
首をかしげたあと言葉の意味が理解できて、じわじわとはずかしさがこみ上げてくる。
「失礼しますっ」
タスクスケジュールを掴んで、逃げるように企画3課を後にした。