【ヒミツの時間】KISSの法則 第12話 恋愛遺伝子
KISSの法則・エゴの行方
「仮定話は、好きではないのですが」
お兄ちゃんは窓の外に目をやって。
「麻衣が公立校に通っていれば。
合気道を習うこともなく、男の子とも自然に接したことでしょう。
両親が東京から離れると言わなければ。
私がこれほど深く、歪んだ形で、麻衣に関わることもなかった。
自ずと条件が揃ってしまったのです。
ですが、それをよいことに麻衣を思い通りに育てたことは、非難されるべきでしょう。
私のエゴでしかありませんから……申し訳ありません」
榊課長に深く頭を下げる、お兄ちゃん。
「頭を上げてください、伊織さん。
それをエゴだというなら、僕も同じです」
ゆっくりと頭を上げる、お兄ちゃん。
「さっきはカッコつけて“心に響いた”なんて、言いましたけど
麻衣さんが大切に育てられたことが、単純に嬉しいんです。
女性が苦手なんて言いながら、嫉妬深くて。
その上、自信もないものですから」
嫉妬深くて……自信もない……
榊課長が? 信じられない。
「簡単ではないのは予想できますが……」
ぽかんと見つめる私に、爽やかな笑顔を見せて。
「条件をすべてクリアできれば、伊織さん公認になれるんですよね」
静かに頷くお兄ちゃん。
「麻衣さんを手に入れるために全力で当たるのですから、他に支障が出るかもしれない。
でも、僕は構いませんよ。
それって利己的、つまり、自分の利益だけを追求していることになりますよね。
それは、僕自身のエゴです」
しばらく榊課長を見つめたお兄ちゃんは、私に目を向けた。
「麻衣、榊さんの役職は?」
「え、あ?
企画部、第3企画課長さん、です」
今、それ、必要な情報だっけ。
「なるほどね」
お兄ちゃんは思わせぶりな笑顔で呟いて。
「もし、今の会社をお辞めになるようなことがあれば、ぜひ、うちの会社に。
まあ、あなたのような人材を手放すはずもないでしょうが」
まさかの、ヘッドハンティング。
「あなたはキレ者で、弁も立つ。
普通の人間なら、丸め込まれるでしょう。
あなたのおっしゃるエゴと、私のエゴでは、重みも罪深さもまるで違う。
ですが、敢えてあなたの策に乗ってみるのもいいでしょう。
面白そうですから、ね」
目を細める、お兄ちゃん。
「恐れ入ります」
うやうやしくお辞儀を返す、榊課長。
理解不能だし……絶対ウラがある感じだけど。
お互いに笑ってるから、いいかな。
KISSの法則・恋愛遺伝子
「あなたたちは、結婚するつもりでしょう?」
な。ななな?
なに言っちゃってるの、お兄ちゃんっ!
「ええ、僕はそのつもりです」
ふぁっ?
ぐるんっと、榊課長を見る。
「僕はそうですけど、麻衣さんは……」
眉を下げ、すがるような目で見る榊課長。
ちょっと、待って。
「麻衣、あなたってコは。
榊さんをもてあそぶようなことをして」
「違うの、待って!
そんなの、初耳だしっ」
お兄ちゃんと榊課長って今日、初対面だよね。
この阿吽(あうん)の呼吸は、一体。
グルなの?
ドッキリなの?
「ゆくゆく結婚する二人というのは、雰囲気でわかります。
そういう機会が多いので、自然とね」
きょとん、としていると。
パートナー同伴のパーティーですよ、と。補足説明。
「勝手にのろけるので、耳に入ってきたのですが。
結婚する相手には、説明できない“なにか”を感じるそうで。
揃いも揃って、“運命”、“赤い糸”、などという非科学的な言葉を、呆けた顔で使うのです。
私から見れば、たかが遺伝子レベルの問題なのに」
たかが、なんて乱暴すぎるよ。
大体、なんでそんなに難しく考えるんだろう。
遺伝子ってDNAとか染色体とか……
それって、生物学的な、あれでしょう。
うーん、と唸りながら、首を捻る。
「それって」と、榊課長。
「HLA遺伝子、ですか?
いわゆる恋愛遺伝子って、いわれている」
はぅっ? なんですって。
わかり易く説明してほしいのに、もっと難しくなっちゃった。
「あー、染色体の何番目かにあって。
両親から1組ずつ受け継いだ免疫とか抗体の組合せで決まる、“型”なんだけど」
ふんふん、と頷きながら。頭はパニクる。
「染色体の6番目ですよ」
お兄ちゃんが、すかさず補足。
「6番目ですか」
オトナの対応で笑顔を見せる榊課長。
「その“型”が違う男女ほど、相性がいいって言われてる」
ふぅん、と。頷いて。
「……で?」と、訊いてみた。
「先日、麻衣に宿題を出したでしょう?
マリンの香水のことで」
うん、と頷きながら。
遺伝子の話が香水に変わったことに戸惑う。
「HLA遺伝子は、フェロモン……
つまり、体臭と密接な関係にありましてね。
異性の体臭を心地よい香りと感じれば、HLA遺伝子の型が遠く。
逆に嫌悪感を持てば、型が近いのだそうです」
うんうん頷く、だけ。
私、ずっと頷いてるけど、今一つ話のつながりが見えない。
「私と榊さんが全く同じマリンの香水を使っていたとしても。
フェロモンと反応して香りは変わります。
……だから、あの宿題にはそもそも正解がないのですよ」
つまり。
お兄ちゃんと同じ香りにはなりえない。
似ていても、非なるもので。
私が、榊課長の胸で甘えたいと思うのは、HLA遺伝子の型が遠いから。
それって。
恋愛遺伝子の……
型が違う男女ほど……
その方程式に当てはめれば、
榊課長と私は遺伝子レベルで相性がいい、ってこと?
「宿題って?」
榊課長が訊く。
そうだ、ここは榊“先生”に教えを請うべきでしょ。
着流し鬼教師よりは優しそうだし。
お兄ちゃんからの宿題を説明する、私。
耳を傾ける、榊課長。
そして、その様子をじっと見つめるお兄ちゃん。
「……でね。
『マリンの香りが好きだから、その香りを纏う彼に魅かれたのでしょうか?
それとも。
私が纏っている香りに似ているから、彼に拒否反応が起きないのでしょうか?』
って、お兄ちゃんが宿題を……」
「んで、なんて答えたんだ?」
急かす榊課長。
「麻衣は、答えてはいません。
ただ、質問の答えが矛盾していることに気づいて、私に抗議しただけです」
うわ、お兄ちゃんてば、感じわるい。
せっかく副担の榊先生なら、見逃してくれそうだったのに。
後ろで見学してた担任の着流し鬼教師が、しゃしゃりでてきて、さ。
「ちょうどいいですね。
この場で、あの時どう結論付けたのか、発表してもらいましょうか」
結局、そうなるの?
“場合によっては、彼の前で発表させますよ”って
確かに言われたけど。
「んと。だから。
マリンの香りは好きです、けど。
だからって、それで榊課長に魅かれたわけじゃなくて……
それは、ほんと。
でも、榊課長に、きゅうって……されたときは」
「……きゅうっ?」
お兄ちゃんの声がとがる。
「いや、まあ」と榊課長。
焦った様子で、続けて、と目配せ。
「お兄ちゃんの香りに似てるって、思った。
もしかしたら拒否反応が起きないのは、そのせいかもって悩んだけど。
……悩んだんだけど。
言わなきゃ、だめ?」
お兄ちゃんに首をかしげる。
出てるかどうかわからない“ほんわか麻衣ビーム”を意識しながら。
「だめですよ」
にべもなく答えるお兄ちゃん。
やっぱ、だめかぁ。
ふぅ、と息を吐いて。覚悟を決める。
「香水とか関係なく、その。どきどき、して。
家にいて姿が見えなくても。
マリンの香りなんかしなくても。
榊課長を想うだけで、えっと
哀しくなったり、はしゃいだり、照れてみたり……
それで。
ああ、これが恋なんだって……
え?」
すっと立ち上がる、お兄ちゃん。
あの。どうしたの。
「1分間だけ、あげましょう。
きっかり1分ですよ、榊さん」
そう言い残して、部屋を出る。
1分間って何のこと?
怒ってる感じ、ではなかったような。
不安になって隣を見上げると、紅い顔の榊課長。
「麻衣……ほんとに?」
掠れる声に、きゅうんと胸が疼いて。
頷く間もなく、ぎゅうっと抱きすくめられた。
「あー、ヤバい。
どうにかなりそう、オレの心臓」
すごい速さで、とくとく鳴っていて。
ちょっと、心配。
「覚悟ができた、って。
思って……いいの?」
囁く吐息が、耳をくすぐって。
顔を上げると、目の前に覗きこむ黒い瞳。
あ。の。
ち、近くないです?
鼻の頭同士が、“すりすり”って、して、ます。
「……1分、経ちました」
冷静な声の主は、リビングのドアに寄りかかって腕組み。
慌てふためいて、ぱっと離れたら。
ちっ、と。舌打ちする榊課長。
「とりあえず」
しれっとした顔で、ソファに座ったお兄ちゃん。
「お付き合いは、“結婚を前提としたもの”で、よろしいですね」
どうして? さっきから結婚、結婚って。
追い出したいの?
この間は“行き遅れ”でもいいって言ったじゃない。
それに。条件だって、まだなにも。
「結婚、だなんて。
だってお付き合いを始めて、まだ4日……」
「あ、こら!」
榊課長が慌てたように言葉をはさむ。
「4日? 本当ですか?」
眉を曇らす、お兄ちゃん。
「4日にしては、触れかたに躊躇がないですね。
麻衣もすんなり触れさせている」
責めるような口調。
ごくりと、のどを鳴らす榊課長。
「詮索は、よしましょうか。
なれ初めや、今までの経過がどうであれ。
今のあなた方の姿がすべてでしょうから」
緊迫感がふわりと緩んで、ほっと胸を撫で下ろした。
「それに」と薄く微笑んで。
「恋する乙女というのも悪くない、と。
そう思えるようになりました。
最初は違和感があったのですが。
慣れ、でしょうか」
恋する乙女……。
おさるさんから、一気にランクアップ。
「拒否反応が出るもの、と覚悟していたのですが。
意外なことに、平気で。
それどころか……そうですね、なんといいましょうか」
お兄ちゃんは少し視線を泳がせる。
「微笑ましく、温かい気持ちになりました。
妹の恋、だからでしょうか。
それとも、あなた方の雰囲気がそうさせるのか。
もしくは……」
なにかを思案するように言葉をとめて。
「いえ、やはり。わかりません」
小さく首を振る、お兄ちゃん。
もしくは、に続く思い。
榊課長と目が合って、小さく頷いた。
小さな変化。
それが大きな転機になるかも、という期待。
「そんなことより」
空気をぴりりと変える、ひとこと。
「条件を提示する前に、ひとつ要望があります」
条件、の前に。もうひとつ?
まだ、あるの?
「榊さん自身を、麻衣に理解させてやってほしいのです。
お付き合いを深める中で、ゆっくりで構いませんから。
きちんと納得させてください。
麻衣は、おそらく一人で考え、悩み、勝手に傷ついて。
自己完結させてしまうでしょう」
「例えば」
榊課長を見据えたまま、続けるお兄ちゃん。
「あなたは女性が苦手だとおっしゃいましたが、その理由を麻衣は知らないでしょう?
察するに、あなたの家族構成も知らないのでは?」
く、と息をのんで、私を見遣る榊課長。
その瞳が不安に揺れていて、胸が苦しくなる。
「そう、ですね。
……わかりました」
絞り出すような返事に、胸騒ぎ。
きっと。なにか、ある。