【ヒミツの時間】KISSの法則 第11話 立花家
KISSの法則・立花家
「少しだけ、私たち家族の話を聞いていただけますか」
お兄ちゃんの言葉に、榊課長が頷くと。
「私は、家具会社のオーナーをしております。
それから、道楽で出資や投資なども。
メイクアップアーティストの友人への出資や、不動産も少々」
お兄ちゃんの会社が家具を扱っているっていうのは、知っていた。
でも、友人関係は初耳。
というか……友達がいたんだ。
しゃくり上げながら浮かぶ、失礼な思い。
「ビジネスで成功していると、女性がよってくるものです。
榊さんも、ご経験がおありでしょう?」
はぁ、と、曖昧に頷く榊課長。
「煩わしいので、先ほどのゲイバー勤めの友人と行動を共にしているのです。
パーティーに同伴しても、本物の女性に引けを取らないほど、見映えがしますし……」
そう言うと、気の毒そうに私をちらり。
なに。その視線。
……失礼すぎ。
むぅと口を結んだら、呼吸が平静を取り戻して。
泣きじゃくった私をなだめる、いつもの手に引っかかったことに気づいた。
「彼は非常にクレバーな人間です。
接客の達人ですから、人心の捉え方を熟知している。
なにより。
女性除けが目的の私と、人脈を広げたい彼とでは、互いの利害も一致していますし。
その上、昔なじみですから、居心地がいいのですよ」
ほう、と感心したような声を出す榊課長。
聞けば聞くほど距離を感じる、彼女……もとい、彼と私。
「そして、この家には……」
声音を変えたお兄ちゃんが、口を開いた途端。
空気がぴきぃんと、音を立てた気がした。
「麻衣と私だけが住んでいます。
両親は10年以上も前にこの家を出ました。
今は、北海道のホテルにいるのでしょう。
梅雨は北海道、真夏は軽井沢、冬は沖縄、と。
気ままなものです」
「両親は、小さな不動産業を営んでおりました。
身贔屓(みびいき)ですが、欲のない正直な人間でしてね。
売るには小さすぎる土地を、頼み込まれて買い。
古いアパートの大家さんの依頼を受けて、無償で修理をして差し上げて」
私が知らない頃の、お父さんとお母さん。
今は悠々自適に暮らしているけれど、人の好さは変わらない。
「ところが、バブルで世が沸くと、小さな“つぎはぎ”の土地が重要になりましてね」
バブルって……。
バブル経済、バブル景気。
1980年代の終わりから、1990年代初めのお話。
狂気のような好景気は、ちょうど私が生まれたころがピークだった、と。
近代経済学で習ったっけ。
「麻衣が生まれる少し前。
人の欲がぶくぶくと沸きあがり、次第に大きくなっていた頃です」
腿に肘を乗せ、前のめりになる榊課長。
鋭くなる視線。
仕事の、顔。
「醜い泡は、怪物のごとく成長し……
手に負えないほど大きくなっていたのに。
あの頃の人々は皆、情報に踊らされ、驕(おご)っていました」
当時。
榊課長は小学生、お兄ちゃんは中学生だったはず。
あの時代を、その時の大人を、どう思って過ごしたんだろう。
眉をひそめた二人の表情は。
苦々しいという以外のなにものでもなくて。
「“地上げ屋”と呼ばれるガラの悪い人間が、ハイエナのようにうろつき。
危険を感じた両親は、私を郊外にある全寮制の中学に転校させたのです」
地上げ屋……
転売目的で土地を買い占める人たち。
かなり強引な手口を使ったって、聞いたことがある。
「私の身を案じ、安全に過ごさせたいとの親心だったのでしょうが。
未熟な私は、追いやられたのだと、ひどく荒(すさ)みましてね」
荒む……。
大声すら出したことのない温和なお兄ちゃんに、そんな時期があったなんて。
信じられない。
「当時はひねくれていたので、決して認めたくはなかったのですが……
実は、不穏な状況下にある両親を、私なりに心配していたのですよ」
お互いがお互いを思っているのに、掛け違う心。
「……それが」とお兄ちゃんは、ため息まじりに続ける。
「ある日、赤ん坊が生まれるのだ、と。
聞かされまして」
「追いやられたと思い込みながら過ごす、離れた場所で……
それでも、健気に両親を案じている当時の私にとっては。
母の胎内で守られ、すくすく成長しているであろう赤ん坊など
憎くてたまらない対象でした」
え……、と。
言葉がもれる。
「そうです。
麻衣、あなたですよ」
なんて、言えば……
言葉が、見つからない。
「それが、どうでしょうね。
両親がすべての土地を手放したことで、騒動が鎮まり。
親元に呼び戻されると。
それはもう、可愛らしい小さな妹が笑っていて。
なんというか、
荒んだ心が浄化される……
そう、魂が清められるようでした」
遠い瞳で懐かしむ、お兄ちゃん。
“赤ちゃんの私”は、ただそばにいるだけで、お兄ちゃんを救っていた……
なのに。
“21歳の私”じゃ、救えない。
だから。
私を託せる人を見極めて。
見送ろうとしている……
そして。
贖罪といって、一人、闇の中で苦しむつもりなの?
ねぇ、お兄ちゃん。
「出かける時には、必ず麻衣の顔を見て。
帰れば手を洗って、まっすぐに麻衣のもとへ。
ぐずれば、あやして。
ミルクを飲ませ。
添い寝をして。
本を読み聞かせ……
そうやって、飽きることなくそばにいたのです」
お兄ちゃんは、目を細めて。
優しく見つめるその先には、きっと。
“21歳の私”ではなく、心に映る“赤ちゃんの私”。
ずっと、愛してくれたのに。
ずっと、守ってくれたのに。
今の私は、無力で。
「そして」とお兄ちゃんは口を開く。
「バブルが終焉を迎えるころ、両親は店を閉めると言い出しました。
周囲の欲深さに翻弄され、疲弊(ひへい)してしまったようです。
札束を積まれ、泣きつかれ、脅され……
そんな日々を、一刻も忘れたかったのでしょうね」
冷めた紅茶をひと口。
視線を遠く、窓の外へ。
「両親は欲がないうえに
商売の才覚がないことを、自身でよく理解していましたから。
土地を売って手に入った、恐ろしいほどの現金を目の当たりにしても。
それを元手に資産を増やそうなどとは、考えもしなかったようです。
それが、功を奏しました。
やがて、バブルがはじけた時……
彼らの手元には莫大な資産が残ったのです」
俗にいう“土地ころがし”
土地の転売で利益を生み出す錬金術に、はまらなかった。
持っていたつぎはぎの土地を請われて売っただけ。
投機目的ではなかったから、バブル崩壊の痛手を負わなかったって、こと。
「人の好い両親は、独り占めを嫌いました。
『お天道様はちゃんと見ている』が口癖ですから……
因果応報を恐れた、といわれれば、それまでしょうけれど」
懐かしい口癖に、口元が緩む。
「元の持ち主を探し出し、買い値と売り値の差額をきっちり折半して。
数年かかって、すべての精算を終えると。
『家族揃って東京から離れたい』と私たちに告げたのです。
麻衣は小学校の低学年、私も社会人になったばかりのことでした」
「こんな家に住んでいますが、所詮(しょせん)私たちは“成り上がり”です。
しかし、両親は身の程もわきまえずに。
溺愛する麻衣をエスカレーター式の名門私立へ入学させました。
ご覧の通り、粗雑な麻衣にとっては……
周囲になじめず、つらいことも多かったようです」
粗雑って……
謙遜に見せかけた、悪口だ。
榊課長の前で、言い返せないって知っていて。
もう。
隣から温かい気配が伝わって。
見上げると微笑んで頷く、榊課長。
わかってるから、と。伝えてくれるように。
「両親が『ここから離れたい』と言ったとき。
まだ今の会社を興す、ずっと前で。
入社1年目の私は、もちろん東京に残るつもりでした。
それを知った麻衣は、自分も残ると言い出して……」
麻衣、とお兄ちゃんは優しい瞳で私に訊く。
「理由を訊いた私に、なんと言ったか覚えていますか?」
うん、と。小さく頷く。
「ひとりぼっちは、さみしいよ、って」
そう、言ったよね。
「そうです。
『ひとりぼっちはさみしいから、私もここに残る』と。
クラスで一人、ぽつんとすごした麻衣の。
その言葉の重さに……
不覚にも泣けました。
社会人である兄が、小学生の妹の言葉に」
お兄ちゃんが天を仰ぐから。
目頭と鼻がつうんと、痛くなる。
「その言葉で。
荒んでいたあの頃……
私は淋しかったのだ、と。
その時、初めて気づいたのです」
そして、と。
まっすぐ私を見つめ。
「小さな麻衣に、あんな思いはさせたくない、と。
固く、決意しました」
「両親は麻衣を説得しましたが……
このコは“ぼんやり”なようでいて、意外にも頑固でしてね」
あ、また。
ちくちく、けなす。
榊課長も苦笑するしかない。
「麻衣は任せてください。そう言って、両親を送り出したのです。
両親は申し訳なさそうでしたが。
私が麻衣を守るように映っていても、実際は麻衣に守られていたのです」
お兄ちゃんを守っていた?
この、私が?
「頼られる、強い兄でありたいと。
虚勢を張って生きることで、前だけを見つめてきました。
もう大丈夫、乗り越えた、と。
“闇”から脱し、“光”の中にいる、と。
……錯覚、するくらいに」
自嘲の笑みを浮かべて。
「麻衣が、10歳を過ぎたころ。
ふとした瞬間に見せる女性の片鱗に、背筋が凍るようでした」
今まで見たこともない、冷たく光る瞳に、射抜かれて。
こわばる、私の頬。
「その戦慄は、乗り越えたはずの闇を呼び覚まし。
引き摺り込もうとするうねりに、私はひたすら抗うばかりで。
ことさら冷静さを保つよう
そして、いつなんどきも我を忘れぬよう
自分を律してきました」
言葉や所作の丁寧さ。
どんなに少量でもお酒を口にしないこと。
まるで、聖職者のように。
「幼い麻衣に救われた私が、一転して成長した麻衣に怯える。
ジレンマに翻弄され、煩悶する日々を送ってきました」
闇から救ったはずの私が、闇の淵に追い詰めたんだ。
唇をかみしめて、こぶしを握り、うつむく。
「麻衣、顔を上げて」
お兄ちゃんの優しい口調に、涙がぽろりとこぼれた。
「麻衣には何の落ち度もないのです。
そうでしょう? 榊さん」
ぽろぽろ泣きながら見上げると、笑顔で頷く榊課長。
親指で涙を拭いながら、ポケットからハンカチを取り出して。
左手で頭をぽんぽん。
右手のハンカチでこぼれる涙を追いかける。
されるがままの私を見て、お兄ちゃんがくすりと笑みをもらす。
「あなたたちは、本当に……」
呆れたような声音と、すくめた肩。
それらに反するような優しい瞳。
「麻衣だけに話すことを避けて、正解でした。
きっと、麻衣はひたすら自分を責めるでしょう。
冷静に聴いて、客観的な判断ができ。
そして、なによりも。
麻衣が信頼をよせている。
榊さんのような方がそばにいてくださって、本当に良かった」
私の涙を拭いてくれる、榊課長。
「麻衣は悪くない」と嘘のない言葉を囁きながら。
KISSの法則・合気道
「お勤めを始めてからの麻衣は、みるみる女性らしくなって。
なるべく顔を合わせないよう、意識して帰宅を深夜にしていたのですよ。
そうですね、特に……」
ふつり、と。
言葉を切り、あごに手を当てるお兄ちゃん。
意味ありげな視線のまま、私と榊課長を行ったり来たり。
「特に……水曜日は」
肩がぴくり、と反応。
榊課長をそっと窺うと。
ひとしきり泳がせた目を私に戻して、苦笑い。
「やはりね……」
お兄ちゃんは悟ったような笑顔で呟いて。
「さっきから何度も目にしていますので、今さらなのですが……
麻衣にふれた、という認識でよろしいですか?」
笑顔のまま、訊くお兄ちゃん。
柔らかい口調だけど、それが逆に不気味。
「あー。その……」と。
困ったように耳の後ろを掻く、紅い顔の榊課長。
「手を握ったり、頬をさわったり。
あ、……すみません。
あと、こう、その。
ちょっと抱きよせたり、なんかも」
そんな。
全部、白状しなくても……
もう。はずかしいっ
「……それ以上は?」
互いの袂(たもと)に両手を入れ、腕組み。
鬼刑事お兄ちゃんは容赦なく追及する。
「いえ、それ以上は、まだ、です。
いや、“まだ”っていうと、アレですけど……」
もう、やだ。
私をちらちら見ないで、二人とも。
大体、“闇”の話は?
からかって、なかったことにできる話じゃないはずでしょ。
「では。合気道の話は、ご存知ですか?」
ええ、と。頷く榊課長。
「さすが、麻衣の母校は名門私立というだけありましてね。
あの制服は実に可愛らしく、人気が高いそうです。
マニア垂涎(すいぜん)らしいですから。
中身がどうであれ、あの制服で歩けば、危険なのです」
中身が、どうであれ?
それって、いわゆる“馬子にも衣装”ってことでしょ。
ほんとに、もう。
お兄ちゃんは、私の心を挫(くじ)く天才だ。
レパートリーが多種多様。
「隠し撮りは日常茶飯事、つきまとわれた生徒さんもいたそうです。
噂を聞いた両親は、麻衣の身を案じまして。
小学部入学を機に、麻衣に送迎をつける、と。
生徒さんの多くが送迎付きでしたから、おかしなことではないのです」
ですが、と、お兄ちゃんは大きな息を吐いて。
「由緒正しい家のお嬢さんとは違い、麻衣はただの成金娘です。
あぶくのような財産は、瞬く間に底をつくでしょう?」
「ええ、まぁ」と。
困惑の表情をうかべ、曖昧に頷く榊課長。
「そうなった時、身を守るすべがなければ、困るのは麻衣ですから。
送迎などという“付け焼き刃”ではダメです、と。
私が強く反対して、合気道を習わせたのです」
ああ、と。補足を加えるように呟いて。
「単に、妹の行く末を憂いてのことですよ。
当時は、干渉も細工もする必要がありませんでした。
なにしろ、その頃の麻衣は、完全な“おさるさん”でしたから」
「おさっ? おさる、さんって!」
思わず、叫ぶ。
なにも榊課長の前で、おさるさん呼ばわりしなくても……
「ああ、語弊がありましたね。
おさるさんにそっくりな女の子、です。
でないと、私と兄妹ではなくなってしまう」
隣から、くっく、と。もれる息。
同じリズムで伝わる震動。
……笑ってる。
榊課長に、笑われてる!
「不器用なほど生真面目なものですから、麻衣の合気道はめきめき上達いたしまして。
そのうえ、両親が家を出てからは、私が保身のために要らぬ知恵を授けたものですから。
男性嫌いにも、拍車がかかってしまいました。
今までに、何人の男性を投げたんでしたっけ?」
うぅ、と。唸る私。
そんなの、覚えてないし。
思い出したくもないのに。
「固め技で捻り上げれば、相手の被害も少ないでしょうに。
極力、ふれていたくないそうで。
いつも、同じ投げ技を……あれは、なんという技です?」
「四方投げ、ですぅ」
消え入りそうな声で答える。
「その度に警察に呼ばれましてね。
相手をかばうわけではありませんが、明らかに過剰防衛なのです。
ですが、麻衣は『怖かった』と泣きじゃくるし。
なだめるために婦警さん方が、『お手柄よ』なんてほめるものですから
ますます技に磨きをかけて」
確かに。
婦警さんは優しかったし、すごくほめてくれたけど。
お兄ちゃんだって、目いっぱい、ほめてくれてたでしょ。
榊さん、と。
申し訳なさそうな伏し目がちの瞳、気遣うような声音のお兄ちゃん。
「麻衣に、技を掛けられたことは?」
そんなこと、しないってば。
慌てて首をぶんぶん振る、私。
「いえ、ありません。
ただ……そうですね。
“そういう時”は、固まってしまっていたので。
免疫がないのは、なんとなく」
“そういう時”とか、言わないで。
顔が火照る。
「そうですか。安心しました。
嫌ならば、麻衣は全身で拒否するでしょう。
拒否反応は、反射的に投げ技に変わりますから。
かなりのダメージを与えられる技量を持っているだけに、恐ろしいのです」
まるで、怪物あつかい。
「では。受け身を練習した方がいいでしょうか」
なっ! 思わず声が出る。
榊課長まで……
「ええ、そうですね。
鍛錬なさった方が、身のためですよ。
今“以上”の関係になった場合、麻衣がどう出るかは予測不可能ですから」
今……“以上”って!
もう、やめて。ちら見しないで。
ごめんなさいっ、ギブ、アップです。