のべりんちゅ.

坂井美月と申します♪ よろしくお願いいたします♡

【ヒミツの時間】 第10話 課長のヒミツ④ 充電

 

"充電……させて" 精一杯の言葉。
 "どうぞ" 無垢な微笑みに、複雑な想い。 

 

【ヒミツの時間】 第10話 課長のヒミツ④ 充電

 

課長のヒミツ・充電

 

10月。

忙しくなった高橋は、営業に出るか自分のデスクにいるかで、ほとんど顔を出さなくなった。

それでも、顔を合わせる度に訊かれる。

「麻衣ちゃん、食事に誘った?」

いや、まだ……。

首を振るオレに、大きなため息。

だからさ、最初の一言がわかんねーんだよ。

そんなことを口にしようものなら、豪快に笑われるのが目に見えているから、言えない。

 

 

 

恋愛経験はともかく。

交際経験は、それなりにある。

ただ、それがカラダだけでココロを伴っていないから、途方にくれてしまうのだ。

覚えている限りで、全部、誘われて始まったもの。

拒む理由が見当たらなければ、流れに乗っかってた。

流れに乗っかってみたオンナは、両手の指を裕に越える。

それなりに数があっても、こんな時何の役にも立たない。

 

 

 

どのオンナも始まりから終わりまでパターンは概ね変わらず。

最終的に、縋られるか、怒らせるかして、疎遠になるだけ。

終われば、また何も変わらない日々。

結果、時間の無駄。

そう結論付けて。

最近は誘いに乗っかることすらしない。

というか、どういうわけか誘われる頻度が減った。

どちらにせよ誘う必要がなかったから、誘い方に困惑する。

自分から動くって勇気がいるんだと、迷惑ぶった自分を猛省した。

 

 

 

「こういう時こそ、お得意の行動心理学だろ?」

高橋の言葉に、天を仰ぐ。

「そういう小細工より、先にさ。

 一般的には……

 なんて、声掛けるんだ?」

バカにされるのを承知で訊いたのに、高橋は口をぽかんと開けたまま。

「おま、え……なに。

 マジで。そこから?」

口の端がひくひく震えてる。

「笑いたいなら笑えよ」

呟いたら、指を差して笑いやがった。

 

 

 

「ま、そういうのはさ。経験だから。

 人から聞いてどうこうってもんじゃないでしょ。

 当たって砕けなよ」

当たって、砕ける。

……氷の榊、クラッシュアイス的な。

“クールイベント、よかった。ありがとう。お礼に食事でも”

ちょい待て。

名乗るのが先か。

“企画第3課長 榊だ”

榊“だ”、じゃねーか。

いや、でも。

名乗る前に“バックの左手”ってやつを謝るべきだよな。

“その節は、ちょっとした出来心で……”

順序がメチャクチャだ。

 

 

 

取り敢えず。水曜日、17時50分。

6階に上がってみた。

立花麻衣は、カーペットに粘着タイプの掃除用具を転がしているところ。

時折窓の外を見やり、寒そうに肩を窄める。

物憂げな犬の散歩といった風情に、とくん、と胸が鳴る。

キッチンに向かう彼女に気づかれないよう、そっと距離を詰めた。

今度はカランを無心で磨いているらしい。

「充電、させて」

気づいたら、そう口走っていた。

どう声を掛けていいか、悩んだ末に……“充電”って。

アンカリング、かよ。

心の中でぼやく。

 

 

 

最初に印象に残った事柄が基準点(アンカー)となり、その後に影響を及ぼすっていう、心理傾向。

夏、営業のやつらが彼女に掛けた“充電”。

あの、もやもやがオレのアンカーで。

簡単に声を掛けられるやつらが妬ましくて。

最初から……そういうことだ。

オレは立花麻衣が気になって、単に近づきたかった、だけ。

気づいてしまえば、胸にすとんと落ちてくる。

 

 

 

聞こえたはずなのに。

立花麻衣は、何か考え込むように左に顔を向ける。

行動学の視覚解析で言えば、左を見るのは過去に聞いた記憶を追っているとき。

そしてなにやら呟いて、うんうんと頷くと作業を続けだした。

くそ、こうなったら自棄だ。

「充電、させて」

もう一度、今度は強めに。

肩をぴくりとふるわせた彼女が、ゆっくり振り向く。

 

 

 

思わず、立花麻衣から視線を逸らす。

声を掛けたのはいいが、その先どうするかまで考えてもいなかった。

ちらりと視線を向けると。

彼女は視線をゆっくり左上に。

視覚的記憶を辿っているらしい。

覚えてないのかよ。

「企画部、榊。

 ……氷の榊っていえばわかるか?」

ぼそりと呟けば。

ハッと顔を上げ、右手を左肩に添え、俯いた。

頬がみるみる真っ赤に染まる。

バックの左手。

……やっと思い出したか。

 

 

 

オレの顔を見たまま、ぼんやりしている彼女。

抱きよせた、あの夏の昼下がりが蘇る。

礼を言おうと決心して来たのに。

「あ、ごめんなさい。

 充電、ですよね。どうぞ」

自分に掛けられた始めての声。

それを聞いたら、どうしても手に入れたい、と思った。

立花麻衣の純粋な発想力。

こう、と決めたら突き進む危なっかしさ。

オレに、ないもの。

 

 

 

「そう、じゃなくてさ」

一歩一歩近づいて。

あの時と同じ。

紅く染まる頬。

見開く瞳。

小さく開かれた唇。

それでも、彼女は怯えていない。逃げもしない。

ただオレを見つめていた。

このままだと止まらない。

 

 

 

辛うじて理性を働かせ、肩にふれて彼女をそうっと反転させる。

素直にくるりと後ろ向きになる立花麻衣を、きゅうっと一瞬抱きしめて。

壊さないように、怖がらせないように、そうっとくるむ。

すっぽり包んで息をつくと、ぴくんとふるえる彼女。

薄桃に染まる耳朶が思いのほか近くにあって。

唇をよせようとして、思いとどまる。

――怖がらせたら逃げられる――

――ゆっくり、手なずけたい――

 

 

 

「あ、あのッ」

状況を理解し、我に返ったのか。

急に慌て始める彼女。

逃がさない。

逃がすわけねーだろ。

耳元で「しずかに」と告げると、また体をぴくんとさせておとなしくなる。

――怖がらせたら逃げられる――

――ゆっくり、手なずけたい――

呪文を唱えながら。

「少しだけでいいから。こうさせて」

こくりと頷く、立花、麻衣。

 

 

 

腕の中には、小さく俯く彼女がいて。

紅い耳朶が小刻みに震えている。

「いやか」と訊けば、首を横に。

「怖いか」と訊いても、同じで。

振り向かない。

喋らない。

媚びない。

ただ、じっと腕の中にいた。

振り向いて、首に腕を回し、至近距離で甘く誘う。

そんな今までのウザいオンナとは違う反応に、どうすればいいのか、戸惑う。

 

 

 

「充電完了」

あくまでも充電に拘っているように。

そう、声にする。

立花麻衣はシンクを掴んだまま動かない。

狙われている危機感のない立花麻衣。

ただでさえ危なっかしい彼女は放心状態で。

ひと気のない6階に、このまま置いていくわけにはいかなかった。

だが、オレが隣にいたんじゃ、いつまでも状態が変わらなさそうだ。

アジト前で、彼女の動向を見守る。

狙われている危機感って……。

オレが一番狙ってんじゃん。

呟いて苦笑をもらす。ミイラ取りがミイラだ。

離れてしばらくすると、立花麻衣は覚醒したように身を震わせ、頬を両手で挟んだ。

そして腕時計に目を遣ると、慌てたように5階に降りる準備をする。

アジトに滑り込み、扉の内側で息をひそめ、彼女の足音を聞いて。

内心バクバクしながら、何食わぬ顔でデスクに戻った。

 

 

 

フロアに戻って、ちらりと見た立花麻衣は、ぼんやりしていて。

新堂にひたいをさわられていた。

顔の紅さは、発熱のせいじゃない。

無垢で純真な彼女。

……だからこそ。

仕事の依頼と同じく、オレはここからどう動いていいのかわからない。

礼を言って、食事に誘え。という高橋のアドバイス。

その予定だったのに。

なにひとつ達成できなかったくせに、飛び越えてハグ、なんて……。

「何やってんだ、オレ」

小さく呟いてみる。

 

 

 

それでも、やはり。

水曜日は朝からチェアの座面に小動物が潜んでいるかのように、もぞもぞして。

時計の針が揃って下で重なるころ、17時27分には、胸の中で、ぽこぽことゆっくり気泡が湧いて。

17時50分には6階にいる。

このままでは進めない、焦り。

このままでいたい、狡さ。

相反する思いを抱えて、立花麻衣をくるむ水曜日。

「クリスマスに誘いなよ」

何も知らない高橋は簡単に言うけれど。

まともに話したことすらないオレが、どうやったら誘えるのか。

 

 

 

 

課長のヒミツ・嵐到来

 

「榊、見ろよ。シンジョに波乱だぞ」

年も押し迫った午前中、高橋がオレをつつく。

イベント会社にとっての企画部は、中枢にあたる。

ここで扱う仕事は機密事項だ。

他の部署は一目で見渡せるようフラットでオープンな造りなのに対し、企画部はパーテーションで仕切られている。

いつものように、そのパーテーションの陰から窺い見ると。

なるほど、シンジョに珍客乱入といった様子。

「誰だ、あのオンナ」

呟くオレに、勢いよく振り返り目をひん剥く高橋。

「なんだよ、有名なヤツ?」

 

 

 

「おま、え……」と。高橋はうわ言のように呟いた。

「榊のカノジョでしょ?」

ぁああん? 何言ってんだ、高橋。

「自分で条件提示したんだろ。付き合ってるフリしろって」

「何でそんな、わけわかんねーこと、したんだ?」

自分で決めてやったことだよ、と。高橋は肩を竦めて。

「オンナ除けのためでしょ」

全然、記憶にない。

ああ、だから。

最近は誘われることがなくなったってワケか。

そうだな、確かに。

あんな気の強そうなオンナなら、女除けにはなる。

立花麻衣の心も知らず、呑気に感心していた。

 

 

 

「麻衣ちゃんが固まってる。

 ヤバいんじゃない?」

ヤバいって何が。

視線を向けると、シンジョは乱入してきたオンナと企画部方面を交互に見ている。

シンジョのうち、二名を除き。

一人は新堂。

オンナは新堂に話しかけてるわけだから、新堂もソイツに顔を向けてる。

もう一人は立花麻衣。

どういうわけだか、騒がしそうな空気の中、PC画面を見ているようだ。

だが、ただぼんやり見ているだけ。

マウスもキーボードも操作していない。

どうした、立花麻衣? 具合が悪い、とか。

 

 

 

しばらくして派手な嵐は去ったようだ。

「察するに。

 “のばらちゃん”へのクレームだろ」

あ? のばら?

「ほら、“すみれちゃん”こと、麻衣ちゃんとツートップの、さ」

あー、そんなこと……あったような。

ま、いいや。のばらって方には興味ない。

「10月1日付で秘書課に配属されたんだよ、のばらちゃん」

ふーん。10月1日付で。へー。

いや、待てよ。

「それって、立花麻衣と同期だよな。

 シンジョってそんなに早く配属されんのか?」

「お、やっと喰い付いた」と、にんまりする高橋。

「秘書課と受付だけ、らしいよ。

 他は来年の9月末までシンジョ」

 

 

 

新堂が今の出来事をシンジョたちに説明している様子。

それに、シンジョが何か返す。

立花麻衣は微動だにせず、PC画面を見つめるだけ。

そうこうしているうちに昼を迎え、シンジョたちは6階へ移動を始めた。

ゆっくりと立花麻衣は立ち上がり、一瞬だけこちらに視線を向けた。

愁いに満ちた表情に、心臓がどくりと大きく音を立てた。

「ヤバいよ、榊。

 麻衣ちゃんが、しょげてる。

 なぐさめるチャ~ンス!」と、耳元で囁く高橋。

「修羅場に巻き込まれて、ビビったんだろ」

小さな背中から目を離せず、ぼそりと呟いた。

 

 

 

課長のヒミツ・魅惑のザイオンス

 

年が明け、新年度が近づいても。

毎週水曜日は欠かさず6階へ。

そっとくるみ、ゆっくり離れる。

誓って、狙ったわけではないのだが……

ザイオンス効果。

繰り返し接することで好意度や好印象が高まる、ってヤツ。

顕著に表れているザイオンス効果に手応えを感じて、繰り返し五感に訴える。

つまり。

毎週、目に映し、耳に残し、温もりを共有……。

結果、カチコチだった彼女が、少しだけ柔らかくなった。

それが、今日こそ伝えようという決意をふにゃりと曲げる。

 

 

 

焦りは、もはやピークに達している。

誰かに掻っ攫われでもしたら、悔やみきれない。

玉砕覚悟で、伝えるか。

その一方で、このままでいたい狡さも捨てきれない。

伝えて拒否されれば、そこで終わり。

少しでも先延ばしすれば、ザイオンス効果が作る右肩上がりの比例曲線が自然と実を結ぶかも。

覚悟を決めるか、静観するか。

焦るな、落ち着け。考えろ、オレ。

 

 

 

順を追わないから、ややこしいわけで。

そりゃ、一足飛びにハグなんかするからだ。

フツウはどうするんだ?

高橋と新堂の場合は……。

まあ、あいつらは同期だからな。

和気藹々とした中で、自然とくっついたんだろう。

だけど、待てよ。

あいつらは確か、喧嘩ばっかしてたぞ。

そう、そう。

今でこそ世を偲ぶバカップルなあいつらも、最初は犬猿の仲だった。

 

 

 

チャラくてキザな営業課長を気取っている高橋は、最初はとっつきにくい、嫌味なヤツで。

オレは別にあいつにとっつく気もなかったから、気にもしてなかったけど。

高い能力を鼻にかけて、周りを見下していた。

そういう態度を隠そうともしないから、余計四方八方と衝突して。

ある意味トラブルメーカー的な。

とんがって斜に構えた高橋を、一喝したのがおせっかいな新堂。

めんどくせーから構うなよ、って思った。

ほっときゃいいんだよって。

だけど、新堂が真正面からぶつかって、高橋もすげーキレて。

……で、なんで。

あーなってんだ?

興味がないから、聞きもしなかった。

 

 

 

「お前らさ」と。

耳の後ろを掻きながら高橋に声を掛ける。

「高橋は、新堂に。

 なんつってアプローチしたんだ?」

ぉお? と素っ頓狂な声を上げる高橋。

目がイヤな感じに輝いている。

「いや、なんでもない」

慌ててその場を離れようとしたオレの腕をがっしり掴む、高橋。

「興味、あるんだ?

 お手本にしちゃう?」

頼まれても、手本になんて絶対したくない。

完全なる反面教師だ。

 

 

 

「きっかけが不明なだけ。

 お前ら仲悪かっただろ」

「ん~、まぁね。

 あの頃の僕は、こんなに丸くなかったしねえ」と。

遠い目をして、感慨深げに呟いて。

「修羅場てんこもりだったよ。

 包丁持ち出した僕に、香里が死んでやるって喚いて

……嘘をつくな。どんな状況だ。

「結局はさ。

 どんなときも一番傍にいてくれたんだよ、香里が」

一番、傍に。

ふん、なるほどな。

とりあえず、日々傍にいるのが近道かも。

よりザイオンス効果も高められるし。

 

 

 

「おい、新堂」

「なによ」と。

人目がないのをいいことに、新堂はファイティングポーズをとる。

……戦わねーよ。

お前、それシンジョの連中に見られたら、幻滅されるぞ。

「立花、麻衣だけど……」

つっかえながら、名前を呼ぶと。

新堂はファイティングポーズを解き、腰に手を当て、顎を上げた。

……威嚇、か。

負けるわけねーだろ。

「あいつ、オレによこせ」

「ぁああ~ん?」

チンピラばりに絡んでくる、新堂。

なに、こいつ。ほんと疲れる。

「あんた、『よこせ』ってなによ。

 シンジョの行き先は、あたしがこの目で決めるのよ」

新堂は凄みをきかせているつもりらしいが、別に怖くもない。

「だから、頼んでんだろーが」

「それの! どこが? 頼む態度なのよ!」

やべ、また言い方を間違えた。

 

 

 

「大体、あんたみたいな……

 素行の悪いヤツにねぇっ!」

胸座をつかみそうな勢いで、距離を詰める新堂。

素行が? ……悪いか、オレ。

「香里っ!」

オレの背後から高橋が“待った”をかけた。

救世主、あらわる。

グッジョブ、高橋!

「香里。まだ、ダメだよ」

まだ? まだダメってなんだ。

「こっちの話」と困ったように笑う高橋。

「榊は不器用なんだよ。

 そこを踏まえてちゃんと見極めなきゃ」

新堂を宥めてくれるのはありがたいが、さらっと貶された気がする。

 

 

 

「急いては?」

唐突に。

何の脈絡もなく、新堂に問いかける高橋。

「コトを仕損じる……でしょ? 

 わかってるわよ。でもっ!」

高橋にキレながら答える新堂。

合言葉か? 

なんなんだ、このバカップルっぷり。

いくらオレが空気みたいだって公言してても、置いてけぼりにすんなよ。

「……痴話喧嘩ならヨソでやれ」

睨みながら言い放ってやったら、ごんっと肩パンチ。

「お前の話だぞ」と拳を握った高橋。

オレの? 

嘘つけ、どーせ責任転嫁だろ。

 

 

 

課長のヒミツ・捲土重来

 

立花麻衣を初めてハグしたのは、去年の10月だった。

それがもう5月。

それだけ経っても、何も変わらない。

なんて言えば、彼女を手に入れられるのか。

彼女の笑顔を真っ直ぐ前から見られるのか。

とにかく企画に貰うべく策を練る。

機嫌のよさそうなときを見計らって、手土産持参で新堂に取り入ろうとしても。

貢ぎ物だけをさっと奪って、舌を出す。

くそ。逃げ足の速いヤツ。

悪態をつく一方で、自分の不甲斐なさにため息。

それでも、毎週水曜は給湯室へ。

チャンスは、いつ訪れるかわからないから。

 

 

 

「じゅ、」

――充電、させて――

そう、いつものように口を開きかけて、固まる。

……誰だ、これ。

「じゅ? ってなんですか。榊課長」

……どう、して。

立花麻衣はこんな風に笑わない。

……どう、いう、ことだ。

「じゅ……。18時に打合せがあって。

 その、まあ。

 ひとりごと、だ」

声を立てて笑う目の前のオンナ。

耳障りな高い音。

 

 

 

……どういうことだ。なにが起きてる?

「今日は水曜日だよな」

ふつふつと湧く怒りと、じわじわ滲む焦り。

踵を返して、足早に休憩室を出る。

……どういうことだ……

立花麻衣は確かにフロアから出た。

いつもより若干早い時間だな、とは思ったが。

……そうだ……

彼女は新堂と言葉を交わしていた。

 

 

 

「どういうことだ、新堂!」

5階の廊下、腕を組み仁王立ちしていた新堂は

オレの第一声で、完全に出鼻を挫かれたようだ。

「なに、あんた……。

 必死じゃん。らしくないわね」

力が抜けたように、へにゃりと笑った。

笑ったって、誤魔化されねーぞ。

睨みながら、低く問う。

「どういうことだ? たちば……」

立花麻衣は……、と。

詰め寄ろうとしたオレの肘を取り、新堂は足早に廊下の端に。

「あんた、バカなの? 

 みんなの前で、なにフルネーム言おうとしてんのよ」

 

 

 

「……立花麻衣は?」

廊下の突き当たり、自販機の前。

ひと気がないことを確認した新堂は、呆れたように肩を竦める。

「麻衣はね……

 絶賛、口説かれ中よ」と事も無げに言う。

だ……、と言ったつもりが、言葉が出ない。

「口、開いてるわよ。

 氷の榊が台無し」

誰に? なんて?

喉に引っかかる言葉をむりやり絞り出す。

「安心して。

 ま、冗談みたいなもんだから」

冗談“みたいな”もんって。

立花麻衣の意に沿わないことを、新堂が許すはずはない。

分かっていても、心が揺れる。

 

 

 

「麻衣のこと、そんなに心配?」

「……ああ」と呟くと。

「マジなのッ?」と身を乗り出して、喰い付く。

「どう、思ってんの?」

お前には言わない。

言うなら……

言えるなら、ちゃんと本人に言ってる。

「新堂には関係ねーだろ」

ぷいっと目を逸らすオレの腕を、がっしり掴む新堂。

怪力だ。

「あんた、あたしたちが何も知らないと思ってんの?」

「あ?」と不機嫌に睨めば。

「水曜、夕方、給湯室。心当たりあるでしょ?」

睨み返された。

 

 

 

頭がうまく働かない。

な……ん、だって。

水曜……。

夕方……? 

給湯室っ!

「おいっ!

 それをネタに口説かれてんのか?」

新堂の手を振り払い、肩を掴み返す。

「あいつは、どこだっ! 言え、新堂

つっ、と顔を歪める新堂。

「落ち着きなさいよ。麻衣は無事だから。

 居場所が知りたかったら、ちゃんと聞いて」

くそっ。焦ってもムダってことか。

胸くそ悪いが、仕方がない。

人質は、他ならぬ立花麻衣なんだから。

 

 

 

「麻衣、泣いたのよ。子供みたいに無防備に。

 あんたの、その。傍若無人で冷徹で自己中なとこ。

 それが麻衣を苦しめてんのッ!」

二の句が継げない。

泣くほど嫌で、苦しめていた、のか?

がくりと肩が落ちる。

「……麻衣が少しでも嫌がってたら

 あたし、あんたをぶん殴ってた」

少しでも、嫌がってたら?

「嫌じゃねーんだな?」

畳み掛けるオレに、「知らない!」と、顔を背ける新堂。

立花麻衣がオレに靡くのを快く思わない新堂が、不機嫌ってことは……。

「救出する。場所、吐け。今すぐだ」

 

 

 

「最後まで聞きなさいよ」

勇むオレを、軽くいなす新堂。

「榊が今までしてきたこと、あたしはずっと見てきたから。

 許せないし、信用できない。

 想いをよせてくれる女性社員に、迷惑だっていう態度を隠しもしないで。

 石ころみたいに無視して」

それは……。そう、だが。

それのなにが悪いんだ。

期待を持たせないのも優しさなんだろ? 

……そんなふうに考えたことは、ないが。

「今は確かに、麻衣に魅かれてて。

 麻衣のことになると取り乱す。

 だけど、それがいつまで持つの?」

 

 

 

「確かに新堂の言うとおりだ。

 だけど、“いつまで”なんて期限が分かってるヤツがいんのかよ。

 現にお前は、高橋と未来永劫添い遂げるって誓えんのか」

息をのみ、唇を噛む新堂。

「……誓えない」

消え入りそうな声で呟いた新堂は顔を上げて。

「でも、あたしは。

 そうありたいと願ってる」

きっぱり言い切った。

「オレも、そうだよ。

 立花麻衣を知りたい、傍にいたい。

 “いつまで”なんて考えたこともなかった。

 ずっと続けばいいと思ってる」

新堂が、ぽかんとした顔で見上げた。

「……それじゃ、だめか?」

掠れた声でしつこく粘る。

「あんた、ほんとに氷の榊?」

呆れたように吐息をもらす、新堂。

 

 

 

「麻衣はほんとにいいコなの。

 裏がないコ」

ああ、と頷く。

「裏がないのは、榊も同じね。

 だから、迷惑だと思えば隠さないし、人を傷つけることに躊躇いがない。

 人に与える印象が真逆なだけで、もしかしたら似てるのかも」

そう、だろうか。

純白と漆黒。天使と悪魔くらいの落差だけど。

「ひとつだけ。同期のよしみで、ありがたい忠告を授けるわ。

 上から目線はやめなさいね。

 麻衣、委縮しちゃうから」

さんきゅ、と。呟くオレに肩を竦め。

「6階、小会議室。

 使用中になってるトコ」

新堂は諦めたように小さく告げた。

 

 

課長のヒミツ・のるか、そるか

 

6階への階段を駆け上がる。

使用中の表示は、こともあろうにオレのアジト。

「……でさ、麻衣ちゃん。

 僕のアシスタントとして営業に来てくれない?」

高橋……?

ヤバい、立花麻衣が営業に盗られる。

焦って、力任せにドアを開く。

「おいっ! ちょっと待てよっ!

 抜け駆けか、高橋。卑怯だぞ」

睨みつけるオレに、「卑怯って小学生かよ」と涼しい顔の高橋。

「立花麻衣はぜったい渡さねぇ」

コイツは、お前の上司の新堂と付き合ってんだぞ。

高橋の優しげな表の顔に、コロッと騙されそうで。

彼女の肩にふれ立ち上がらせると、背中に隠した。

 

 

 

「企画に対して、抜け駆けしてんじゃないけど?

 おまえなんか敵じゃねーよ」

高橋は不敵に笑う。

よく見ろ、立花麻衣。

これがコイツの本性だ。

「麻衣ちゃん争奪戦は、経理と総務、あと広報が一歩リードだよ」

経理、総務、広報。……嘘だろ?

振り向いて立花麻衣の瞳を覗くと、背後から畳みかける声。

「麻衣ちゃん、夜の残業不可なんだよね?

 早出でカバーするらしいけど、さ」

彼女は無言で小さく頷く。

「企画も営業も難点はそこ。

 それで、僕が既成事実を……」

既成事実ってなんだよ。

言葉より先に、手が出た。

高橋の背中にクリーンヒット。

 

 

 

「営業の交渉はここまでだ。

 あとは、企画が――」

企画第3課、課長としてじゃない。

「――オレが、交渉する」

肩書のない、オレが。オレ自身が。

立花麻衣の瞳を覗けば、オレしか映っていなくて。

「出てけ」と邪魔者を追い払った。

「ひゃ~、なんだよ。横取りか。

 この~、覚えてろよっ」

なんだ、その陳腐な芝居。

……なんか。裏がある気がするぞ。

 

 

 

しばらく扉を見つめるが、異変はない。

聞き耳を立てている可能性も否めないが、この際、外野なんかどうでもいい。

やっと、ここまで来たんだ。

立花麻衣と、ようやく向かい合えたのだから。

息を一つ大きくついて、呼吸を整える。

振り向いたら、真っ赤な顔の立花麻衣が自分の胸のあたりをぎゅっと掴んでいて。

整えた呼吸が、また乱れた。

 

 

 

「残業になるときは、オレが責任持って毎回送るから」

屈んで目を合わせる。

「怖いんだろ?

 オレが、守るから。な?」

至近距離で正面から。

身悶えしそうなシチュエーションだが、そんな場合じゃない。

「あ、あの。

 私、合気道を嗜んでおりますので、自分の身は守れます」

アイキドー? 呟きながら意味を考える。

合気道、だろうな。

こんな華奢なのに……合気道。

 

 

 

「ただ、男性に免疫がないものですから。

 ちょっと、いえホントに、ちょっとだけなんですけど。

 その、過剰防衛になってしまって……」

困ったように身を捩る立花麻衣。

まずい。

一瞬たりとも目が離せない。

「あの、悪気はないんです。

 でも、投げた着地点が畳じゃなくて、アスファルトだから」

紅い顔で焦って言い募る彼女に、肩が震えて。

ついでに自分の杞憂に呆れてしまう。

 

 

 

つまり。

オレが陰の騎士なんて粋がらなくても、自分で対処できたってことだ。

ムキになって。悩んで。

ばかだな、オレ。

目の前のシャイで初心な彼女と、勢い余って投げ飛ばすらしい彼女。

意外過ぎて思わず吹き出した。

「おまえ、最高」

笑うオレをきょとんと見上げて。

「理由はわかった。じゃあ、余計に送る。

 おまえ、いや、立花……。

 ま、麻衣が暴走しないように、な」

麻衣、と。

初めて呼ぶファーストネームに心臓が大きく脈打つ。

 

 

 

「だから、企画に来いよ。

 違うな。

 来てくれ? 

 ……来て、ほしい」

なんて言えばいい? 

どうすれば、伝わる?

上から目線を直せって言われたんだよな、と。

ありがたく頂戴した同期の言葉を反芻して。

ゆっくり麻衣の両手を包んだ。

「企画に……来て、ください」

小学生みたいな、お願いの言葉。

あー、恥ずかしい。

溶けた氷は、もう蒸発寸前だ。

「オレの目が届く範囲にいて。

 毎日絡める場所に置いときたいんだ」

恥ずかしさついでに、心に秘めた願いを全部この場で打ち明ける。

 

 

 

「それで、さあ」

麻衣がどんな表情をしているのが確認するのが怖くて。

目を合わせられない。

「オレの、“専属”になって欲しいんだけど」

首をかしげる彼女をちらりと見遣り。ため息。

「オフィスでは、片腕として」

瞳を覗いたのは一瞬だけ。

反応が怖くて天を仰ぐ。

表情を窺おうとするから、躊躇ってしまうことに気づき。

息を大きく吐いて、正面からハグした。

これで顔が見えない。

後は、胸の中の麻衣に想いを伝えるだけ。

「プライベートでは、ずっと“充電”させて」

すっぽりくるんだ麻衣は、何度も何度も頷いた。

 

 

 

「あの。

 “充電”ってどういう意味ですか?」

長いハグを解くと、訊ねられて

それは……、と。言葉に詰まる。

アンカリングだ、と明かせば、ストーカー紛いの行為にヒかれそうで。

「オレも、上手く説明できない。

 だけど。その。

 やましい気持ちじゃないっていうか、

 いや、それもなかったとは……。

 いや、そうじゃなくて」

なんて言えば、伝わる? 

麻衣が大切だってこと。

「咄嗟に出たのが“充電”で。

 体が勝手に動いて。

 でも、ホッと安らげた。

 ほんとに充電って言葉が相応しかった」

にこっと相好を崩す麻衣に募る、愛おしさ。

こんな気持ち、初めて知った。

 

 

 

ようやく手に入れた、麻衣。

「一緒に5階に戻ろう」と言う浮かれたオレを、麻衣はやんわり窘める。

「別にいーだろ、うちの会社、社内恋愛に寛大だし」

そう言ったら。

オレを見上げる、うるんだ瞳。

キスしたらまずいよな、と覗き込んだ瞳には、驚きの色。

……まさか。

「さっきの”専属で充電”っていうの。

 あれ、その。

 つまり……告白、だぞ」

明らかにキョドってる。

やっぱり。ちゃんと言わないと伝わらない、か。

聞き耳を立てて、小会議室の扉を開ける。

休憩室にはもう誰もいない。

 

 

 

麻衣の手をとり休憩室のキッチンへ連れて行く。

「立花麻衣さん、付き合ってください」

初めてなんだけど、告るなんて。

28才で初体験、て。

「あ……えと。

 はい。嬉しいです。

 あの、よろしくお願いします」

ふう、と安堵のため息がもれる。

え、そんなつもりないです、なんて言われたら、再起不能に陥る。

「どうして、わざわざこっちに連れてきたんですか?」

えー、そんなこと言わせちゃう? 

もしかして麻衣ちゃん、純情小悪魔? 

心の呟きが、高橋の口調に激似で。

オレでもこんな風になるのか、と呆れながら顔がにやける。

「ここで、言いたかったんだよ。

 ここが、その、始まりっていうのが相応しいかな、と思って」

悶々と爪を噛んだ”アジト”よりは。