【ヒミツの時間】 KISSの法則 第30話 月曜日の取引
KISSの法則・魅惑の交渉術
肩を震わす、高橋課長。
「やり込められて面白くないんだよ、榊は。
暴走すれば、麻衣ちゃんが被害をこうむるわけだから……
麻衣ちゃんが人質じゃ、手も足も出ないよね」
ふん、と榊課長は鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「だって。
ミユキちゃんがよく言ってますもん。
“あの二人、打合せって言って個室にこもるの。
ドアをぴっちり閉めてさ。怪しくない?”って」
そうそう、と腕ぐみをして頷く香里さん
「香里さん、わかりました。約束します」
保身のため、もあるけれど。
香里さんの気持ちが嬉しくて。
榊課長の視線を無視して、背筋を伸ばして宣言した。
「榊はどうなのッ?」
厳しい香里さんの声が飛ぶ。
「この期に及んで“却下”なんて言ったら、麻衣への愛を疑うわ」
う、と。榊課長は唸って苦い顔。
「話はわかった……
でもさ。ちょっとくらい、いいだろうが」
「「だ~めっ!」」
真剣な香里さんと、楽しそうな高橋課長。
揃って即答された榊課長は、恨めしそうに私を見つめる。
「誰もいないとこじゃ、止められそうにないんだよ。
オレさ。こんなに、ぐらぐらな人間じゃなかったはずなのに
……誰のせいだと思ってんだ」
頭を抱えて、はぁ、とため息。
え。あ。ど、どうしよ。
おろおろしてたら、香里さんがにやり。
「騙されちゃだめよ、麻衣。
あれも、榊の手なんだから」
……でもっ。
うぅ、と口をへの字にして香里さんを見上げる。
私を見て、困ったように肩をすくめる香里さん。
「そんな顔しないの。
わかってるわよ。
お兄さんからの条件を満たすためにも、適度なガス抜きが必要ってことでしょ?」
大きく頷いた榊課長は、香里さんを睨んでひとこと。
「とりあえず、席代われよ」
どうしてそんな上から目線なんですか?
「あんたねぇ!」
ほら、怒られた。
「会社ではセーブする。
だからお前らも協力しろ。
オレがゴリ押ししなかったら、結婚話なんて進まなかったんだぞ」
ぐぅ、と香里さんは真っ赤な顔で言葉に詰まり。
「ま。そうだね」と高橋課長は頷く。
「会社がダメっていうなら、週1でこういう場を設けろよ。
そうだな。
ノー残業デーの水曜日。半個室のここで」
あっという間に自分の意見を通していく、榊課長。
初めから、これが狙い?
「4人で座るのは構わないけど、ちょっとは気を遣って席を外せ。
30分くらい、二人で散歩してこいよ」
真横の香里さんと、正面の榊課長を交互に見遣って。
握った拳を震わす香里さんに、ハラハラ。
お願いする態度には程遠い榊課長に、ドキドキ。
「新堂、頼む。
そういう時間を、オレらにくれ」
あっ。え……?
急に頭を下げる榊課長に、面食らう。
そして。
“オレら”という言葉にじわじわ頬が緩んで。
「香里さん、お願いします」
私も一緒に、頭を下げた。
んもぉ~っ! 頭上から牛みたいな声。
そっと顔をあげたら、香里さんで。
「麻衣、ビームがだだもれ。
伝説の、ほんわか麻衣ビーム」
わ、懐かしい。
ただし。
それって、香里さん限定の効力なんですけど。
「ど~する? 香里」
飄々と訊く高橋課長。
「麻衣を駒に、榊を改心させるつもりだったのに……
逆に。麻衣を手札に、要求を突き付けられるなんて。
く~や~し~い~!」
香里さんは高橋課長に訴える。
高橋課長は“よしよし”と言った風情の瞳で。
この二人って。すごくいい。
真っ直ぐな香里さんに押されているように見えて、大きく包み込む高橋課長。
高橋課長の歪んだ心ごと愛すると言ってはばからない、香里さん。
「ちょっと散歩に出かけよっかな。
僕らのデートに、榊もずっと協力してくれたしね」
はっ、とした表情で高橋課長を見上げた香里さんは、バツが悪そうに榊課長に視線を移す。
「そう、だったわね。
ありがと、榊。
わかった。協力します、させてください」
さんきゅ、と。
榊課長は澄ました顔で。
「麻衣、嫌だったら叫ぶのよ、じゃね」
小さく手を振った香里さんは、高橋課長と肩を並べて、個室を出ていった。
KISSの法則・ふたりの時間
予想外の二人きり。
はぁ、とため息をつく間もなく。
「そっち。つめて」
榊課長が席を移ってくる。
「わ、わ。待って」
もたついてたら、体をよせてぎゅっとハグ。
そのまま、そっと奥によせられて。
「今日、特別可愛い」
甘く囁く声。耳にぺろっと違和感。
ぎゃ、舐められた。
「さささ、最初から。
ここで水曜日を過ごそうって決めてたんですか?」
流される前に、訊きたいことは訊かなくちゃ。
「ゆくゆくは……な。
新堂にあんなこと言われなくても、何とかしないとまずいってのはわかってた。
それでも、まだまだ理性的にイケるだろって。
たかをくくってたんだよ。
伊織さんも『麻衣はおさるさんだから難攻不落だ』って言ってたしさ」
うきぃ。
また、おさるさん呼ばわり。
「なのに……」と掠れた声。
至近距離で覗き込む榊課長。
「今日の一件で総崩れだ。
嬉しい誤算だけど、タイミング的に早すぎる。
状況が追い付かない。
ま、なんとかするけどさ」
にやりと笑って。
そのまま真顔に。
とくんっと脈打つ私の心臓。
視線を逸らすことなく。
ゆっくりと、私の前髪をかきわけて。
……ためいき。
吐息がおでこにかかって、早くなるどきどき。
動きがスローすぎて。
もどかしくて、じれったくて……涙目になる。
「……どうしてほしい?」
そんなこと、訊かないで。
はずかしさに首をふるふる。
「うん?」
また、弱いところを突いてくる。
視線を逸らそうとしたら、後頭部を柔らかく固定されて。
ほっぺも、おでこも、唇も。
もう一方の手で優しく撫でられる。
「なぁ……どうすればいい?」
そんな切なそうな声、出さないでってば。
頭が沸騰しちゃう。
「おまかせ、します」
やっとのことで答えてるのに、面白くなさそうな顔。
うー。あぁー。もう……。なにが正解?
「お好きなように、しちゃって、ください。
私、あのぉ。
拓真さんと、同じ気持ちですから」
動きが止まる、榊課長。
「拓真さんのこと、信じてるし、大好きです。
だから、お好きなように……っ?」
唇をなぞっていた指で、言葉を封印。
「ストップ、麻衣」
はぁ、と、がっくりうなだれて。
「オレは、学習能力がないらしい。
麻衣にふると、返り討ちに遭って自分が追いつめられるって、何回も思い知らされてんのに……」
きゅうって、私を胸に抱きこんで。
ゆるゆると力を緩めた。
後頭部とあごを優しくホールドされて、距離を取って、見つめ合う。
「んじゃ。……好きにする。
今更、“いや”は、なしだぞ」
はい、と小さく返事をしたら。
ちゅっ、ちゅっ、と。控えめな音で、キスの雨。
榊課長の胸にそえていた手を、ゆっくり背中に回したら、ぴくんと反応。
「ばか、あおるな」
小さく呟いて。
唇に、長いキス。
幸せにふるえて。
ふるえて……。
ん?
ふるえている、のは。
私の携帯。
KISSの法則・2件のメール
え、と。今、何時?
急に、現実に引き戻される。
〈遅くなります〉って。
お兄ちゃんにメールしたのに、返信がなくて。
気になって、テーブルに置いていたから。
携帯の震えがテーブルに共鳴して。
ヴー、ヴーっていう音が榊課長も聞こえたみたい。
「やべ。伊織さんか?
今、10時ちょいすぎだな」
携帯には、メール着信2件の表示。
「見ても、いいですか?」
断って、メールを開く。
覗いちゃいけないと思ったのか、少し距離を置いて定位置に戻る榊課長。
1件はお兄ちゃん。
〈榊さんと一緒なら安心です。
長い出張の後ですから、ゆっくり会いたいでしょう。
夕食の心配はいりません。
思いきり、甘えてらっしゃい〉
やっ、もう。
出張の話はしてたけど、“甘えてらっしゃい”って。
もう1通は……ユウさん。
〈麻衣ちゃん、こんばんは。
もう、おねむの時間かしら?
土曜日の件だけど。
10時に、車でおうちに迎えに行きます。
榊さんにも、伝言お願いね〉
あの綺麗なユウさんが、“榊さん”って呼んだことに。
たとえメールでも、ちょっぴり、もやっ。
コドモだ、私。
……自己嫌悪。
「どうした? 落ち込む内容か。
速攻で帰ったほうがいいな。
タクシーで家まで送ってく。
そうだ。その前に、あいつらを呼び戻さないと」
スマホを手にする榊課長を、そっと止めて。
「メール。お兄ちゃんと、ユウさんからです」
携帯を渡してメールを読んでもらった。
「甘えてらっしゃい、って……
どっかで見てるんじゃないよな、伊織さん」
きょろきょろと周りを見回す榊課長の慌てぶりに、思わず吹き出したら。
「やっと笑った」
榊課長が微笑んだ。
「ユウさんのメールだって普通だけど?
前に聞いてたから、土曜日は1日空けてあるし。
別に気になる内容じゃないだろ。
なんで、落ち込んでたんだ?」
うぅ、と言葉に詰まって。
“何でも話す”っていう約束を思い出して、口を開く。
「ユウさんってすごく綺麗な人なので……
その。つまり。『榊さん』って呼ばれて。
妬き、ました」
俯く私の手を取って、指を絡める榊課長。
「そんなんで妬いたのか。
やべ、胸がくすぐったい。
やっぱ嬉しいもんだな」
つないでいない方の手で、頭を撫でる。
「嬉しい、ですか?
コドモっぽくてうんざりしない?」
驚いて訊いたら。
「麻衣だから、嬉しいの」
真っ直ぐ目を見て、答えてくれる。
それで、と。
頬を紅くする榊課長。
「麻衣以外には興味ない。
一般的に見て、綺麗だろうが、可愛いだろうが、性格がよかろうが……
麻衣がオレの一番で。
麻衣しか、そういう対象で見られない」
胸が、きゅうんと疼く。
「うるうるした目で、見上げんな。
この店、出禁になるのはまずいだろ。
オレの理性で遊ぶなよ」
遊んでないですよぉ。
口をとがらせてるつもりが、にまにましちゃってうまくいかない。
KISSの法則・いいコのものさし
「ただいまぁ~。って……こらっ!
見つめ合って、にへにへするんじゃないっ」
戻ってくるなり榊課長を引きはがす、香里さん。
「麻衣、門限大丈夫?」
榊課長の肩越しに訊く香里さんに、思わず苦笑い。
「今、ちょうどメールが来た。オレら帰るわ。
精算はとりあえず……
あ。麻衣。トイレ行っておいで」
“お会計はカノジョに知られずにスマートに済ませるのがマナー”って。
ここに来た最初の日に言ってたっけ。
だからって。
そのために、いちいち“トイレ”って言うのは、逆にスマートじゃないと思うんだけど。
「親子みたいだね」
くすくす笑う高橋課長。
うわ。
ピンポイントでぐさり。
しかも甘い笑顔で。
「トイレに行ってきます。……パパ」
ツンとあごを上げて、榊課長に告げる。
そして。
べー、と。
高橋課長に向かって舌を出して、ぷんっ。
「いいコすぎない、今の麻衣ちゃんの方がさ。
人間味があって、僕は信用できるよ」
にこにこ笑う、高橋課長。
いいコすぎ。だからウラがあるって……
そう、思ってたんだ。
レストルームのミラーに映る私に話しかける。
「私、いいコじゃないんだけどな」
じゃな、と。榊課長が手を上げて。
お店を後にした。
終電はあるけど。
まだ、くっついていたいからタクシーに乗った。
「私。いいコじゃないのに」
肩にもたれて呟いたら。
「そうだな」って笑う、榊課長。
「オレの我慢をあおりまくるし。
オレの理性を限界まで試すし。
オレの純情をもてあそぶし」
もぉっ。そういうことばっかり。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますっ」
へぇ? と。面白がる声に。
はずかしい返しだった、と気づく。
「そういう、話じゃなくて……」
伝わらない、もどかしさ。
「わかってるよ」
優しく包むような声音。
「学生時代、“変わってる”って言われてたんだろ?」
「え? あ。うん。そうです……」
だんだん小さく消えるような返事。
確かに伝わっていることに、泣きそうになる。
「ああいう年代ってさ、そういう対応しかできない。
自我が強かったり、信念を持ってたり、成長過程で反抗期があったり。
悪い意味じゃなくて。
個体差……っていうか、個性として。
そういう性質とか時期とかあるんだよな。
カズが、まさにそうだったから」
あ……、と。思わず声が出る。
そうだ。
弟さんの我儘を聞く榊課長は、いいコって言われて。
いいコって言われる兄に、苛立って反抗する弟。
「オレこそ、本当にいいコじゃなかったぞ。
めんどくさいから、ごねないだけでさ。
なのに、大人たちは“手のかからないいいコ”って思ってて。
よけいにカズをムカつかせて、悪循環」
軽く笑い飛ばす、榊課長。
「麻衣はさ。オレに比べたら真のいいコなんだよ。
素直で、にこにこ。
損得じゃなくて、良心を基準にして行動してる。
そういうコって、年長者ウケがいいだろ?」
確かに、先生を始め大人にすごく目をかけてもらってきた。
「それを、“変わってる”って分類して、排除したがるやつもいる。
高橋みたいに“ウラがある”って疑うヤツも、な」
「でもさ」
榊課長は私の頭をそっと撫でて。
「悪くいう人間も、きっと苦しんでる。
“どうして、素直に『はい』って言えないんだろう”
“自分に対する意見を許せないんだろう”って。
他者を悪者にして、そんな自分を嫌悪して……」
弟に妬まれ、理不尽な仕打ちをうけ、トラウマを抱えて成長した榊課長。
彼の深い洞察力は、私をゆったり包みこんでくれる。
おでこにちゅっと唇をおとして。
「麻衣は、生まれつきの性格が純粋で。
伊織さんをはじめ、周りに愛されて育った。
それ以上に。
邪魔するものに影響を受けない、強い芯を持ってる」
榊課長の言葉は、胸にすっとしみこんでくる。
そんなことないですっ、て。
照れちゃう気持ちが消えて、素直に受け取れる。
「麻衣は、見かけだけじゃなくて。
正真正銘、生粋のいいコなんだよ。
いや、いいコっていうと語弊があるな。
だからって。
いいオンナっていうと、ニュアンスが違ってくるし」
覗き込む榊課長の目が、車内の暗がりでいたずらっぽく光ってる。
もうっ、と。
よじる身体をがっちり捉えて。
「麻衣は……オレが心をよせられるたった一人の存在だ。
麻衣だけが、オレの心をかき乱す。
だから。
離すわけにも、失うわけにもいかない」
きゅうっと胸に抱きしめて、大きな吐息。
「別々の場所に帰ることが、苦しい。
麻衣のすべてを手に入れて、ずっとそばに置いときたい」
うんうん、と。胸の中で頷く。
やべ、と。
小さく呟いて、そっと距離を取る榊課長。
「ここ、タクシーの中。公共の場所だった」
あ。ごめんなさい。
はずかしくて俯いた。
「ルールを決めよう」
唐突な提案に、首をかしげる。
「社内では、同じチームの一員として適度な距離を保つ。
新堂の言う通り、小会議室の扉は開けて」
はい、と。頷く。
「帰りは必ず駅で待ち合わせて、一緒に帰る。
社内の人間に見られても、何食わぬ顔で会釈、でOKだ。
同じ路線、同じチームなら、一緒に歩いてない方が逆に怪しいからな。
互いにカノジョと婚約者がいるっていう設定だから、大丈夫だ。
ただし、駅を降りたら家までは手をつなぐ」
「……え? 手を?」
驚いて見上げたら、榊課長は怒った顔で見下ろしていて。
「そこは絶対譲らないぞ。
あの地区は、社内の誰も住んでない。
手だって、こっそりつなげば見えない。
な。いいだろ?」
でも……。でも、でもっ。
「一日に一回は、麻衣にふれないと頭がおかしくなる。
誰かに見られたら、“転びそうだったから、咄嗟に手を取った”って言えばいい」
いいわけ、ないでしょ。
むぅ。コドモ扱いして。
「頼むから。
じゃないと、家の前でキスするぞ」
そういうの、脅迫っていうんですよ。
思いっきり睨んでみたけど。
怖くないぞ、と。涼しい顔。
「明日、ちょっとつないでみて。
だめそうだったら却下です」
精いっぱいの譲歩に。
やった、と。小さく歓声を上げる榊課長。
そこまで持ち込んだら逃がさない、って。絶対の自信。
KISSの法則・ヒミツのルーティン
「水曜日はあの店でハグとキス、な。
その後、タクシーでは手をつないでくっつく」
口ぶりからすると、そこは決定事項で。
「お店、出入り禁止になりませんか?」
ちょっとだけ、水を差してみた。
「それ以上やれば、アウトだろうな。
けど、個室ならキスくらいアリじゃないの?」
無責任な発言。
でも、反論しても軽くあしらわれちゃう。
それに。
私だって……、そう、したいし。
「週末は、基本的に珈琲館で会議。
今週土曜は、ユウさんと3人で会うけど。
日曜は、迎えに行く」
あの……、と。
不安になって口を開く。
うん? と。甘く促されて。
「そんなに会ってて、嫌にならないですか?」
ぁあ?
やっぱり、不機嫌な声。首をすくめる。
「ははーん、麻衣ちゃん。
ここで、はっきり言ってもらいたいんだな?
それとも。
言葉じゃなくて、態度で示していいなら、遠慮しないけど?」
ま。待って。ごめんなさいっ、と。
慌てて止めた。
「嫌になったり、飽きたりしない。
結婚したら、毎日一緒に居られるのに。
自分で決めたこととはいえ、お預け状態なんだぞ。
正直、今の状態じゃ足りないんだよ」
耳元で囁かれて、ぴくんっ、となる。
「そう思ってるのって、オレだけ?
麻衣は、そうじゃないの?」
甘い、囁き。
耳のふちをぺろっ。
耳朶にちゅっ。
「ルール違反、ですよぉ……」
抗議したいのに、力が入らない。
「あ、運転手さん、ここで降ります」
ふわふわした体を支えられながら、タクシーを降りた。
ぶぉんっと、走り去るタクシーをぼんやり見つめて。
「え。あの。タクシー行っちゃいましたよ。
それにここ、公園の前だし」
「いいの! 歩くぞ」
私の腰に手を回して、家の方へゆっくり歩きだす。
「いちゃいちゃしすぎたから、家の場所知られたらはずかしいだろ。
オレもさ。
麻衣を送った後に、もう一度あのタクシーに乗るのは照れる。
それに……」
街灯の下で足を止めて、私の顔を覗きこんで。
「そんな色っぽい顔のまんま、家に帰せない。
伊織さんに誤解されたら、計画が台無しだ」
また、ゆっくりと歩きだした。
KISSの法則・契約成立
「明日から忙しくなる。
20時、いや、できれば21時まで残業したい。
麻衣は、21時までは待てないよな」
ぼんやりしていた頭が、徐々にお仕事モードに。
「いえ。私も仕事ならたくさんあります。
優先順位の低いものは手つかずだったんですけど、
この間休日出勤したら思った以上に仕事がはかどって。
残業できれば、そういうものにも手をつけたいし……。
それに」
ちらりと榊課長を窺う。
「もし、できたら。
榊課長のお仕事もお手伝いしたいです。
足手まといになって、かえってご迷惑かもしれませんけど……」
ふふん、と笑う榊課長。
「オレは、麻衣に手伝ってもらうつもりだけど?
ただし、依頼も完了引渡しもメールのやり取りだけ。
じゃないと、気が散る」
仕事に私情をはさむのは良しとしないってこと?
そんなこと、イバって言っても今更感がありますけど。
「だから、結構キツいこと言うかもしれない。
『なんだこれ、使えねー、やり直し!』ってな。
大丈夫か? 泣いても慰めないぞ」
またコドモ扱いして。
「望むところです。
私も馴れ合いじゃなくて、仕事はきちんと覚えたいですから」
きっちり視線を合わせて、答えてみせた。
「契約成立だ。
じゃ、明日からよろしくな。立花課長補佐」
榊課長は、私の髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。
ここはがっちり握手の場面でしょ?
言ってることと、やってることが違いすぎ。
「伊織さんは? 帰ってきてるなら挨拶する」
えっ? と、思わず大きな声が出そうになって、慌てて口を覆う。
深夜。住宅街。近所迷惑。
まさか。
“不埒(ふらち)な報告に伺います”っていう、あれのこと?
「違うぞ。あれは冗談だ。
そんなこと言ったら、ヘソ曲げるだろ」
ヘソを曲げるお兄ちゃん、なんて
想像できない。
「“遅くまで連れまわしてすみません”って言うだけ。
いる? 伊織さん」
ガレージを覗いて、不在を確認。
「まだ、帰ってません。家で待ちますか?」
「ばっ、ばーか。上がり込んでたら伊織さんが気を悪くするだろ。
じゃあ、いいや。帰る」
「あ、じゃあ。タクシー呼びましょうか?」
慌てて訊いたら。
「そんなに遠くないから、歩いて帰る。
麻衣が玄関に入るまで、ここで見てるから。
……おやすみ」
つないだ手を離して。
そっと背中を押された。
振り向いて。
名残惜しい気持ちを抑えて、手を振って。
真っ直ぐ前を見て、ゲートをくぐる。
朝。このゲートを外に向かってくぐった時。
榊課長に会える嬉しさと、アケミさんと対峙する恐怖。
入り混じった二つの感情を抱えていた。
“今夜、このゲートを逆方向からくぐる時。
私、どうなってるんだろう“って。
不安を覚えたのが、ずいぶん昔のよう。
色々あって。
ありすぎるくらい濃い一日だったけど。
――ただいま。私ね、今、すごく幸せな気持ちに包まれてるの――
ゲートをくぐりながら、小さく報告した。