【ヒミツの時間】KISSの法則 第24話 会えない時間
KISSの法則・あと6日 2通のメール
火曜日は、思いもかけず2通のメールが届いた。
1通目のタイトルは〈業務連絡〉
うぅ、堅苦しいな。
〈どうせ高橋は何も言ってないだろうから、出張について耳に入れとく。
今回の出張先はFeliceの各支店だ。
福岡から始まって、大阪、名古屋、北海道の順で、北上する。
クール・イベのレクチャーと、主要デパートのプレゼンを頼まれた。
帰社予定は月曜の昼過ぎ。ほんとに長いな、気が滅入る。
でもな。
本社のお仕着せだからって、支店がイヤイヤな態度だったら、キレるけど。
食い入るように身を乗り出して、質問もバンバンするから、今日は楽しかった。
だけどさ、一点だけ不満がある。
本来なら、企画立案者が同行すべきだと思うんだけど?〉
最後の一文で、ぽっと頬が火照った。
企画立案者は私。
二人で出張なんて……そんなの。
本社の人に知られない出張先で。
完全な二人きりになっちゃうシチュエーションがごろごろしてたら。
……きっと。
間違いなくっ
絶対に!!!
……きゃぁぁぁああ……ってことになる。
“麻衣ちゃん、やーらしい”
榊課長のいじわるな声が聞こえてきそう。
2通目は〈私的連絡〉
さっきのどきどきが、もっと加速する。
〈ゆうべのメールは、まじでクるな。
“とにかく全部気を付けて”なんて、仕事放棄寸前だぞ。
麻衣に会いたいから無事に帰るに決まってるだろ。
麻衣こそ、いろいろ……とにかく全部気を付けろ。
それから、あんまり泣くなよ。
高橋のやりそうなことはわかってた。
新堂に言えばよかったんだけど、時間に追われてて。
まぁ、ぶっちゃけ。
悩むかもしれないと思ったけど、麻衣の頭をオレでいっぱいにさせたかったし。
淋しい、会いたいって危機感持たせれば、思う存分、***できるだろ?
なのに、“通常通りのチャージで”とか言いやがって。
絶対、許さないからな。
まぁ、本心は少しだけ麻衣をいじめたかったんだろうな。
好きなコは、いじめたいもんらしいから〉
もぉっ、なに。このメール。
“気を付けろ”って言ってる本人が、私の心臓を壊れるくらいバクバクさせてる。
高橋課長の挑発も。泣いたことも。
すべてお見通し。
背伸びしても、敵わない。
ずぅっとアタマもココロも榊課長でいっぱいなのに。
そういうとこは伝わらない。
しかも。***なんて伏せ字にして。
絶対、想像なんてしないから。
それに。通常通りで、いっぱいいっぱいなのに。
それ以上はムリだよ。
カラダの全機能が停止しちゃう。
煽るな、って、すぐ言うくせに。自分こそ煽ってる。
会いたいよぉ。
まだ2日目……あと6日もあるのに。
〈業務連絡、ありがとうございました。
残念ながら同行はできません。
東京に帰ってきたら、2度とお兄ちゃんに会えなくなってるはず。
そのまま同棲開始ですよ。
いつか、近い将来……
すべての問題をクリアして。
出張じゃなくて、プライベートで旅行に行きましょう。
私は、今できることを精いっぱい頑張ります。
榊課長は“限界だ、煽るな”って言うけれど、私も同じ気持ちだから〉
自分でも不安になるくらいの大胆発言。
限界です、って宣言してるようなものだから。
何度も読み返して、悩む。
Delキーと文字キーをかたかた打って、消したり書いたり。
“コドモのたわごと”って思われる?
ううん、それどころか気づいてもらえないかもしれないし。
結局、そのまま送信した。
KISSの法則・あと5日 仁王立ちの効果
水曜日。やっと3日目。あと5日。
カウントダウンに、ため息をつく。
△日目 < あと◎日、の“<”は明日“=”になる。
“>”になった時、初めて息が楽になる気がする。
17時50分。6階の給湯室。
待っても彼は来ないのに。
わかっていても、つい視線は扉に向いて。
そのたびに大きなため息。
今日のお掃除当番は、淋しさが身に染みる。
もうすぐ6月なのに、ココロが寒かった。
掃除が終わって廊下に出ると、思わぬ人が立っていて。
「麻衣ったら。ため息、つきすぎ」
肩をすくめて笑う、香里さん。
「あ、香里さん。
私、なにかミスっちゃいましたかっ?」
違うの、と。
香里さんは手をひらひら振って。
「金曜日、ごはん食べに行かない?
な~んて。とってつけたような言い草ね。
なんだか心配で。
“噂のカレ”の出現で麻衣を狙う男は激減だけど……」
ですからぁ、狙われてないですって。
いくら鈍感でも雰囲気でわかりますよ……たぶん。
「本当はね。司がどう出るか不安で、さ。
榊がいない水曜のお掃除時間。
『充電させてって言ってハグしてみなよ』って後輩を焚きつけるかも。
……なんてね」
そんな……、と。悲痛な声がもれる。
結婚を決めた高橋課長に対して、そんなに疑心暗鬼になっているの?
それって、私のせいだ。
「もちろん、司を信じてる。
軽い気持ちでも、そんなことしたら……
ぶん殴って、婚約破棄、絶交、絶縁よ。
だけど。
榊以外のオトコなら本当に麻衣が投げるのか、あたしも知りたいもん」
香里さんてば、なんてことを。
でもね~、と。
残念そうに眉を下げる香里さん。
「社内じゃ、ぷち暴力事件発生で騒ぎになっちゃうし……」
ソコですか? って突っ込みたくなるくらい、ポイントがずれてるような。
「ほんとに榊は投げられないの?
っていうか、他のオトコはぶん投げちゃう?」
それは……、と。言葉に詰まる。
榊課長だと“ふにゃん”って力が入らないのは事実だけど。
学校の制服じゃなくなってからずっと、そういう状況に遭わないし。
やっぱりお兄ちゃんが言う通り、“馬子にも衣装”だったみたい。
「ま、それは置いといて。金曜日は空けときなさい。
ほんとは今日ならノー残業デーだし、ごはん食べるにはちょうどいいんだけどね。
今日は水曜日だから、麻衣を榊に貸してあげる。
心配で仕事にならなかったはずよ、きっと」
香里さんの言葉に、ぽぽっとなって。
定時に上がって、小走りで家路を急ぐ。
今日こそ、私が先にメールを送っちゃお。
榊課長のメールに返信してばかりだったから、息を切らせて頑張ったのに。
パソコンを立ち上げたら、もうメールが来ていた。
着信時間は……18時ちょっと前!
同じ時間、同じようにお互いを思っていたって、こと?
寒かったココロがじんわり温まる。
〈給湯室、誰も来なかった?
営業のヤツらだけじゃなくて、誰にもちょっかい出されてないだろうな。
やばい、落ち着かない。
新堂に頼めば“仕事しな!”って思いっきりどやされそうだし。
高橋に頼むわけにはいかない。絶対なんか企む。
これ読んだら、すぐ返信して。
今更だけど、電話で話すか、携帯にメールすればいいんだよな。
でも、決めたことだし。出張の間は、個人のPCメールに1日1通、って。
昨日の2通は業務連絡があったから、特例だぞ。
声聞いたら気持ちが昂って、飛んで帰る。
始末書とか、最悪クビとか、何も考えないで。
メールも1日1通で抑えないと……会ったら最後、麻衣を離せなくなるし。
伊織さんと交わした男同士の固い約束は、絶対守る。
けど、麻衣が“煽らないで、限界です”って言ってくれたことで、かたかた揺れてる。
まずいな、オレ〉
〈今、帰りました。ダッシュで帰ったの。
お掃除当番は、何事もありませんでしたよ。
ヘンな心配しすぎです。
香里さんが扉の外で仁王立ち(?)しててくれたから、かもしれないけど。
香里さんと高橋課長は、私が榊課長以外の男性なら本当に投げるのか、興味津々みたいです。
昨日のメールはごめんなさい。“今”は忘れてください。
限界なのはほんとだけど、“今”は抑えなきゃいけないんですよね。
榊課長がいじわるばっかり言って、どきどきさせるから……
私だって苦しい、コドモじゃないよ、って伝えたかったの。
トラブって出張が延びると困るから、以後自重します。
あと何日で会える……って、毎朝、毎晩、数えています〉
急いで、送信。
打ち込みながら、自分の気持ちをなだめて。
オトナって難しいな、なんて。
ため息まじりに呟いてみる。
周りに気を遣って、足踏みして。
欲しいものを欲しいって素直に言えない。
コドモの視界は“今”だけだけど、オトナは“未来”を見据えなきゃいけないから。
1日に1通だけのメールは、もどかしいけれど、ちょっぴり刺激的で。
貴重な1通に何を伝えようか……悩んで、一生懸命考える。
恋しい人に想いを馳せるその時間が、煌めいて。
榊課長の言った通り。
電話で声を聞いたら、何もかも放り投げて榊課長の胸に飛び込んじゃう。
あとさき、どころか。お兄ちゃんさえも霞んじゃうかも。
そして、やっぱり。刹那的な衝動を後悔する日が来る。
“今”に流されないように、気合い入れなきゃ。
KISSの法則・あと4日 彼のカノジョ
木曜日。出張4日目。あと4日。
やっと、半分。だけど、もう半分って思いたい。
頑張れ、私。
朝、みんなの出社前、私に手招きする香里さん。
「今日、シンジョのミニ朝礼で発表するから」
あ……結婚、ですか? と。
周りを窺って囁くように訊ねると。
ち、違うわよっ、と。狼狽える香里さん。
「そっちはともかく。
発表するのは、麻衣のシンジョ課長補佐の件よ。
役職は通称だけど、7月1日付で正式な辞令が出るから。
そのつもりでいてね」
ドキドキしながら、「はい」と答える。
二人で描いた青写真。
タスク管理表が、少しずつ現実味を帯びてきた。
それで。結婚のことなんだけど、と。
一段トーンを下げて。
「そっちは既成事実として事後発表するの」
え、既成事実? 事後発表?
「入籍を済ませて、社内に発表する予定。
もちろん、お互いの上司には報告するわよ。
両家のお許しが出たらね」
そう言って、大きなため息をつく香里さん。
「今週の土曜日は、あたしの両親に挨拶。
日曜日は、京都の司のご両親に挨拶。
『次男だから平気だよ』って、司はのんきに笑うけど。
そうはいっても、老舗呉服店でしょ?
怖い、緊張してる」
愛する人だからこそ、緊張する。
きっと、高橋課長の方が緊張してるはず。
愛する人の家族とは、仲よくしたいから。
「既成事実の件は、司が言い出したんだけど。
多分、榊の入れ知恵よ。
『交際をここまで隠し通せたんだから、入籍後のタイミングで公表した方がいい』って」
首をかしげる。
「どうしてですか?
早く公表すれば、オープンにできるのに」
「交際段階でオープンにすると、いろいろ面倒なのよ。
同じ会社内だと周りも気を遣うだろうし、その、いろいろ……とね」
「……いろいろ?」
言葉を濁す香里さんにしつこく訊く。
榊課長の入れ知恵なら、入手しておきたいもん。
「金曜日、ごはん食べながら話してあげるから。
今日もよろしくね、課長補佐さん」
「はぁい♪」
返事をしてデスクへ戻ろうとしたら。
「げ、榊……」
うんざりしたような香里さんの声が聞こえた。
慌てて、振り返る。
まさか。出張先でなにかあったの?
「ばかじゃない、榊……」
呆れ顔の香里さんの人差し指を追うと、社内受信メール。
「福岡支社と大阪支社の同期、2人からメール。
つまり、榊とも司とも同期になるんだけど……」
はい、という自分の声がひどくこわばっていて。
「《榊さんってカノジョできたの?》って。
異口同音に訊かれてる」
へ? と思わず気の抜けた声が……
「行く先々で、夜の接待に誘われるんだけど。
“カノジョがいるので遠慮します”って、榊が断わったみたい」
よ? 夜の、接待。とぎれとぎれの言葉がもれる。
「あぁ、ごめん、ごめん。言い方が悪かったわね。
煌びやかなおねえさまのいらっしゃるクラブで、お酒を飲むことよ」
はぁ、と。頷くと。
「榊はずっと、そういう接待を頑なに断わってたらしいの。
新入社員の頃からずぅっとよ。生意気よね。
“協調性がない”って先輩に言われても、頑として。
“結構です”って、一言でバッサリすませてたのに。
今回に限って、わざわざ“カノジョ”なんて言い出すから、
ちょっとした騒ぎになってるみたいよ」
まずい、のかな。
嬉しい、なんて思っちゃいけないのかも。
たぶんね、と。
香里さんは肩をすくめて。
「麻衣に“噂のカレ”が浮上したから、自分も噂を流して牽制(けんせい)してんのよ。
お互いにちょっかい出されないから、好都合でしょ?
でも、あいつ。肝心なこと忘れてる」
肝心なことって。なんだろう。
その時。
え~? ほんとにぃ? ショック!!!
そんなシンジョの声が、廊下にこだまして。
「まずいわね。今日あたり本社に飛び火するわよ。
ミユキは早速、噂の種を仕入れてきた様子だし……
“誰かさん”が勘違いして、はしゃぎまわりそう。
あ~、頭痛い」
すみません、と。理解できないまま謝る。
榊課長が、ご迷惑をかけてるみたいだし。
少なからず、私にも責任の一端があるようだったから。
「いい?
本社の噂も、これからあたしが話すことも、榊には言わないで。
……悪いようにはしないから」
厳しい視線、刺すような声音。
無言でぶんぶん頷く。
「月曜日。司の計画が動くはず。
司はね、どう逆立ちしても榊に勝てないんだって。
でも、ついに見つけた唯一の弱点を攻めるそうだから、心して。
質問は金曜日に。答えられることは、話すから」
間一髪、デスクに戻ったところへミユキちゃんたちが到着。
「麻衣、聞いて~。
榊課長ってカノジョがいるんだって」
口をとがらせるミユキちゃん。
香里さんから情報を聞いていたのに、心臓がバクバクする。
何も知らなかったら、切羽詰まってとんでもない失態を見せるところだった。
違います、知りません、ごめんなさいっ、なんて連呼しそう。
「でも、それってアケミさんのことでしょ?
あんな人がカノジョだなんて、幻滅しちゃうよね」
シンジョのほかのコが、噂話に花を咲かせる。
アケミさん……その名前を聞いたとたん、すぅっと冷えるココロ。
「そんなに大きな声で話してたら、怒鳴り込んでくるよ」
口から出たのは低くて冷たい声。
嘘……これ、私の声?
「麻衣。どうしたの?
なんか、雰囲気が違うよ」
咄嗟に口を押える。
怖い。黒い嫉妬のオーラに取り込まれてしまいそうな……恐怖。
慌てたように香里さんが割って入ってくれた。
「マジで、やめなさいって。
あの人が来たらシャレになんない。
暴力沙汰、“起こす”わよ」
にたりと笑って、指をぽきぽき鳴らす香里さん。
さっと蒼褪めて、口を噤むシンジョ。
少しだけ緩む、私のココロ。
ミニ朝礼で、発表されたシンジョ課長補佐の内示。
みんな笑顔で拍手をしてくれて、ほっとした。
「あたしは、全般的なシンジョ指導。
人間関係とか、配属先とかそういうことは、あたし。
麻衣は、事務処理、電話応対、文書作成、その他の実務指導担当。
わからないことはそのままで済ませないで、ばんばん質問して。
麻衣も知らないことがたくさんあるでしょうけど、一生懸命調べて答えを探してくれると思うの。
そして、一緒に成長してね」
香里さんの優しくも重い言葉と
はいっ、と。綺麗に揃った声に勇気をもらって。
よろしくお願いします、と。
笑顔で挨拶できた。
香里さんの案じたとおり、アケミさんは大はしゃぎの様子。
やだもう~、って。くねくねしてるらしい。
知りたくないのに、耳に入る噂。
ほんとに、榊課長とは無関係なの?
だって、あんなに声高に言えるなんて。
それなりの“なにか”があったからとしか……。
「雑音に惑わされちゃだめよ、麻衣。」
お昼休み、囁く香里さんの声に頷くけれど。
もやもやは消えなくて。
仕事に没頭して、雑念を払おうと頑張ってみる。
帰宅したのは21時を回っていた。
なんとなく、榊課長のメールを見るのが怖くて。
ちょっとだけ、後回しにしてしまう。
お風呂を沸かして、夕食の支度を済ませて……
ゆっくり、ココロを落ち着けてから。
自分にそう言い訳する。
臆病すぎて、情けない。
はぁ、と。ため息をついたその時。
テーブルに置きっぱなしのバッグから、携帯の着信メロディが。
携帯電話が鳴るなんて珍しいから、慌てて取ったら。
《麻衣? 今どこっ?》
香里さんの声。つい、泣きそうになる。
「家、です」
涙声でそれだけ言うのが、精いっぱい。
《榊が心配してる。“返信してくれ”って》
「……電話が、あったんですか?」
震える声を隠して訊いてみた。
勝手だけど。わがままなのは、わかってるけど。
こんな不安なときくらい、声が聞きたいのに。
《お礼を言われたの。
“昨日6階で仁王立ちしててくれて、ありがとな”って。
あたし、仁王立ちなんてしてなかったけど?》
あ……ははは。
怒ってる、かも?
もぉ! 榊課長のおしゃべり。
《榊は、基本お礼なんて言わない人間よ。
気色悪いったらないわ。
麻衣が心配で慌てて電話かけてきたくせに、まずお礼なんか言っちゃって。
“あたしじゃなくて、麻衣に電話しなさいよっ!!!”って怒鳴ったの。
“そうできたら、してる”って、弱った声を出しちゃってさ。
あたしが知ってる榊とは、まるで別人》
くすん、と鼻が鳴る。
《アケミさんの話はしてないから、メールで聞いちゃだめよ。
会って顔見て話さないと、こじれるからね》
〈……あい〉
“はい”って返事をしたつもりが、鼻にかかった“あい”になって。
思わず二人で吹き出した。
《えっと、疲れて寝ちゃった、じゃ嘘っぽいか。
そうね、お兄さんとごはん食べてるって、言っとくから。
落ち着いたら、メールを返信しなさい》
笑ったら、心が軽くなってきて。
“アケミさんには、何の感情も持ってない。
好き、嫌いじゃなくて、本当に何の感情もない“って。
榊課長の同期としてずっと同じフロアで過ごした香里さんが、明言してくれたんだもん。
《……大丈夫。
榊は麻衣のことしか頭にない。
月曜日、はっきりさせるから。
それまで、こらえて》
はい、と泣きながら返事。今のは嬉し泣き。
香里さんは、どうしてわかってくれるんだろう。
榊課長には、どうして言えないんだろう。
同性と異性の違い?
でも。大切な人なら、その垣根を乗り越えなきゃ。
電話を切って、すぐ。その足で2階に上がる。
メールを開いて、絶句。
全部で5通。
1日1通だって、言ってたのに。
最初の1通は20時頃の着信。タイトルは〈依頼〉
そのあと、21時を過ぎてから4通が20分おきくらいに届いていて。
タイトルのない4通を開けると、中身は真っ白。
多分スペースキーをいくつか打って送信したもの。
自分に課した約束を守りつつ、心配している気持ちを目いっぱい表して。
頑なで、いい加減なことができない榊課長。
心配しなくても。きっと、大丈夫。
深呼吸して、1通目をゆっくりクリック。
〈“毎朝、毎晩、数えてる”、か。
たまんないな。そういうの。
今日が木曜。
金・土・日……月曜は移動だから昼過ぎには会える。
土、日は休出扱いだから、月曜は報告だけしたら“帰っていい”って言われるはず。
だけど、“報告書作成します”って、部長にはまじめな顔して言っとく。
ウソじゃないぞ。分厚い報告書は提出するんだから。
今日、高橋に小会議室の使用許可取らせた。“例の”小会議室、な。
時間は、月曜の午後ずっと。
そこで、……待ってる。
仕事が空いたら、ちょっとでいいから来てほしい。
正直に言うと、報告書作成は小会議室じゃなくてもいいんだけど。
顔が見たい。話がしたい。手もつなぎたいから。
それで。
暴走寸前、ぎりぎりまで充電させて〉
もぉ……ばかぁ。
泣き笑いで、弱々しい悪態をつく。
勝手に不安になったことを反省して、返信メールを作成。
〈心配かけて、ごめんなさい。
香里さんに電話してくださったんですよね。
お兄ちゃんと、ごはんを食べに行っていました。
明日は、香里さんとごはんを食べに行きます。
土日は、ひとりぼっちです。
……淋しい。って、禁句ですか?
香里さんと高橋課長は、土日を使ってそれぞれのご実家にご挨拶に行くそうですよ。
月曜日。小会議室、絶対に行きます。
ただ、ちょっと不安が。
その“ぎりぎり”は榊課長基準ですよね。
私の“ぎりぎり”ラインがもっと低いところだったら、どうしましょう?
暴走しそうになったら、責任持ってちゃんと止めてください〉
送信して、大きな息をつく。
お兄ちゃんとごはんって、嘘ついちゃった。
でも。
榊課長が待っててくれる、密会の曜日と場所は……
香里さんが言った“ある計画”の月曜日。
高橋課長が押さえた、小会議室。
きっと。
その時間、そこで。
何かが動いて、何かが変わる。
“月曜日、はっきりさせる。それまでこらえて”
香里さんの言葉が、頭の中でぐるぐるまわった。
KISSの法則・あと3日 衝撃の計画
金曜日。出張5日目。あと3日。
数字が逆転したら先が見えてきたけれど。
ひとりで過ごす土・日は長い。
先週よりもずっと前。榊課長と付き合う前は、どうやって過ごしてたんだっけ?
先週は、怒涛のように迫る恋の嵐に戸惑って。
いろんなことを知って、悩んで、慰められて、舞い上がって。
愛しいっていう気持ちが、芽生えた。
濃い週末だったぶん、今週の淋しさが際立ってくる。
休日出勤しちゃダメかな。休出手当なんていらないから。
榊課長に会ったとき、時間が作れるように。
企画3課の仕事をたくさんお手伝いできるように。
今、抱えているシンジョの仕事を完了させたい。
……動機が不純だよね。
朝いちばん、みんなの出社前。
香里さんのデスクに駆けよって、昨日の騒動のお詫びとお礼を言う。
いいの、いいの、と。笑顔で手をひらひら振って。
「今夜の約束、忘れないでよ。
遅くとも19時には退社のこと。
終わらなかったら、土日休出してもOKだから」
香里さんの言葉にびっくりして、じんわり頬が緩む。
「な~に? そんな嬉しそうな顔しちゃって」
「休出したいなって……
あの。しなきゃ終わらないなって、思ってたんです。
手当は要らないですけど……」
はぁ、と香里さんはため息をついて。
「手当は出るわよ。労基がうるさいもん。
どうせ、一人が淋しいから仕事しようって魂胆でしょ?」
まぁ、そうです、と。
頬を押さえながら俯く。
「月曜日のこと、榊からなんか言われた?」
はい、と。返事をして。
ちょっと考えてから、メールの言葉を業務用に変換する。
あのままは、とてもじゃないけど口に出せない。
「“小会議室で報告書を作成しているから、手が空いたら来るように”、と」
そう……、と。
思案顔で呟いた香里さん。
「小会議室へは17時に行きなさい。
できるだけ退社間際、お掃除当番がいない空白の時間を狙うの。
終わったら榊と速やかに帰れるように、その日は時間調整して。
そのための休日出勤って、考えればいいから」
有無を言わせない指示。頷くよりほかはない。
月曜日、17時、例の小会議室。
なにが待ってるんだろう。
気を抜くと、ふわふわただよう思考を、わしわし掻き集めて。
お仕事、お仕事、と。首を振る。
土日の休日出勤を見込んで、なんとか今日の業務は完了した。
香里さんが連れてきてくれたのは、先週の水曜日と同じダイニングバー。
先週の水曜日。告白されて。驚いて。すごく嬉しくて。
あの時はそれだけで幸せだったはずなのに、今の私は不安でいっぱい。
きっと。欲ばりすぎたから。
「麻衣。なに飲む?」
メニュー片手に首をかしげる香里さん。
烏龍茶で、と答えたら。
はぁっ? と凄まれた。
「お酒、飲んでもいいのよ。
ちゃんと送ってあげるから」
そんな他愛もない会話で、榊課長を思い出して。
香里さんがゆらゆら歪む。
「なっ! えっ?
ちょっと、麻衣。泣かないで」
香里さんを慌てさせちゃった。
「ごめんなさい。あのっ。
お酒を飲むのは榊課長と一緒の時って……約束したんです。
それで、あの。その時のこと思い出しちゃって」
あんたね~、と。呆れた声。
「土曜と日曜、大丈夫なの?
休日出勤って人もまばらよ。
会社でめそめそしてたら、ヘンなオトコに付け込まれる」
「だいじょぶ、です。
綺麗に投げ技を決めてみせますから」
笑って冗談を返したつもりなのに、涙がぽろりとこぼれて。
私ってば、かっこわるい。
「月曜がメインなんだから。
いい? よく聞いて」
オーダー後、声をひそめる香里さん。
「17時に、麻衣が榊に会いに行くでしょ?」
はい、と。神妙に頷く私。
「悪いけど、ハグはだめよ。
アケミさんが登場する予定だから」
息が、止まる。
やだ、そんなの。力なく、首を横に振る。
「今からそんな顔しないの。
麻衣のそばには、榊がいる。
あたしは、廊下で待機してる。
……だから、安心して」
耳には届く、でも心が固まって頷けない。
「榊と麻衣を見たら、アケミさんは逆上すると思うの。
“このオンナが本物のカノジョ!?”ってね」
頬がこわばる。
その時、私、どう、したらいい?
「あとは榊に任せなさい。
アケミさんは挑発するでしょうけど、とにかく榊を信じること」
香里さんはさらっと言うけれど。
そんなこと……
「アケミさんに……」
絞り出した声が弱々しくて、掠れていて。
咳払いする私にお水を渡して、なに? と。にっこり笑う香里さん。
「アケミさんには、知られてもいいんですか?」
「ここではっきりさせなきゃ。
アケミさんは榊のカノジョじゃない、って。
もう2度とカノジョづらできないように、こてんぱんにする必要があるの」
……それに」
香里さんは腰に手を当てて。
「榊も、けじめを付けるべきよ」
けじめ?
それって。
やっぱり過去に何かあって、その……けじめ。
「アケミさんに知られても、影響なんてない。
アケミさんは、喋るわけにいかないの。
自分の首を絞めるだけだから」
香里さんの言葉が耳を滑る。
“もうカノジョじゃないんだよ”、って。
アケミさんに伝えることが、榊課長のけじめ。
……過去に嫉妬する、醜い私。
“新しいカノジョができたんだ”、って。
榊課長は、アケミさんに告げるかもしれない。
でも。
“新しい、カノジョ”は、色褪せて……
いつか。
“もうカノジョじゃない”に変わるかも。
……未来に怯える、臆病な私。
「榊が出張中なのをいいことに、カノジョのフリした罰よ。
あれは確信犯だもの。
榊が言ってるカノジョが自分じゃないことなんて、わかってる。
いい気になってカノジョのフリした手前、カノジョが別にいました、なんてシャレになんないじゃん?
だから、口を噤むしかないの」