【もとかれ】第7話 別れの夜
決意の秋
結局、一葉ちゃんの入社半年での異動は叶わず。
残りの“あと半年”の長さに、目眩を覚えた。
それだって、確実な約束じゃない。
あの朝、タイムカードを押して、廊下をとぼとぼ歩いていたら。
どんっ、と。後ろから衝撃が。
「じゃまっ!」
睨みつけて、ひとこと。
「そんなとろとろ歩いて、ヤル気あるんですか?」
一葉ちゃん、だった。
ごめんなさい、と。
小さく呟く私の後ろには美和さんがいて。
口をぽかんとあけている。
ふん、と。
鼻を鳴らした一葉ちゃんは、美和さんを一瞥すると風を切って歩いて行った。
「ちょっと、明日香ちゃん。
今の……なに?
どうして明日香ちゃんが謝るの?」
私の肩を抱えるようにして、覗き込む美和さん。
驚いた顔に、涙腺が緩む。
だけど、騒ぎにしたくない。
チームにもうこれ以上の波風を立てたくない。
一葉ちゃんを責めたら、きっと……
勇人への想いをぶちまけるはず。
その時、私どんな顔したらいい?
立ってすら、いられない。
「いつからああなの?
なんなの、あのオンナ!
明日香ちゃん、全部話して」
大丈夫です、と。
美和さんと視線を合わせず、小さく呟く。
「久我っちは知ってるの?」
言葉に詰まって、曖昧に頷いてみせる。
ほんとは。
頷いた、って思ってもらえるように、うな垂れただけ。
何度も救いの手を差し伸べてくれたのに……怖くて、嘘をついた。
廊下に響く、一葉ちゃんの甘い声音。
「あ、ちーふぅ。おはようございまぁす」
吐き気を覚えながら、オフィスに入ると。
一葉ちゃんは勇人のデスクにいて。
二人の体勢に、頭の中で何かがぱちんと爆ぜた。
見せつけるように絡ませる腕。
勇人の腕に、胸を擦りつける勢いで。
呆然と立ち竦む、私。
「どうしたんです? ちーふぅ。
……あっ!」
美和さんと私に、今気づいたかのように、驚く一葉ちゃん。
さっき追い抜いて行ったのに。
すぐ来るってわかってたはず、なのに。
「わざとらしい」
蔑むような美和さんの呟き。
ですね、と。
力なく頷きながら、ガラガラと崩れる音が聞こえた気がした。
「来るの知ってて、やったくせに……って。
え? ちょっと。まさか」
……知られてしまった。
一葉ちゃんが私を敵対視する、明確な理由。
ただでさえ不安定なチーム内に起きる、嵐の前触れ。
勝ち誇ったように笑む、一葉ちゃん。
ずくん、と。心臓に衝撃が走る。
振り払おうとしていたはずの勇人は、私を見て動きを止めた。
―― そして ――
口角を、上げた。
あの時も。
今日も。
勇人は、一葉ちゃんを振り払わなかった。
そして……私に笑ってみせた。
“ギブ”を盾に勇人を拒否する、恋人として不適格な私に。
思い返せば。
あの時も今日と同じく、にやりとした笑みだったような……
なにかを企んでいる、ウラがある、そんな笑み。
勇人の真意が、隠れていたのかもしれない。
だけど。
あの時の私には、勇人の気持ちが見えなくて。
ただ、目の前の事実に打ちのめされただけ。
裏切られた悲哀と、やっぱりっていう落胆。
あの日。
一葉ちゃんは意外そうな顔で勇人を見上げて、絶句した。
けれど。
悔しそうに唇を噛んで、私を睨むと……ゆっくり微笑んだ。
真っ白になったアタマと、
抜け殻のようなカラダ、
がらんどうのココロを引きずって。
私は、ふらふらと勇人に背を向けた。
オフィスにこだましたのは……
一葉ちゃんの小さな叫び声。
美和さんの怒鳴り声。
勇人の冷静な声。
気づいたらアパートで。
その日はそのまま、休んでしまった。
無断欠勤とも取られかねない非常識な行動。
ドアチェーンをかけて。
携帯電話の電源を切って。
チャイムの電源を落として。
カーテンをきつく閉ざして。
何度も叩かれるドアに耳を塞いで。
外界をシャットダウンして、整理できないまま自分の心と向き合った。
翌朝。
心を決めて、ペンを走らせた。
シャワーを浴びて、身支度を整える。
決心が鈍らないよう、鏡に映る自分の姿に何度も頷いて見せて。
開けたドアの外。
勇人がうずくまっていた。
驚いて。嬉しくて。でも、もう苦しめたくなくて。
揺らぐ心。
だけど……もう立ち止まれない。
進むしかない。
ううん。逃げるしかなかった。
勇人を起こさないように、静かにドアを閉めて。
そのまま会社に向かった。
「三和君、昨日は具合が悪くて早退したそうだね。
申し訳ない。
心労がたまってるのは、わかってるんだけど……
大丈夫かい?」
早目に出社して。
すぐ、部長に昨日の失態を謝罪に行ったら、逆に労われた。
美和さんが取り繕ってくれたんだと、胸が熱くなる。
“ごめんなさい、美和さん。そして大好きな皆さん。
でもね、私。決めたんです“
小さく胸の中で呟いて、部長に封書を差し出す。
「これは?」
【退職願】の文字に、眉を上げる部長。
「ご存知かと思いますが、チーム内が円滑とは言いがたい状況なんです。
収束も長引いていまして……
いえ、もう不可能に近い状態です。
それは、すべて私が原因です」
驚きを隠せない表情の部長。
申し訳ありません、と。
私は深くこうべを垂れた。
「いや、顔を上げて、三和君。
私はそういう報告は受けていないよ。
事実。
私には、君が土屋君に嫌がらせを受けているとしか……」
「部長っ」
強めに言って顔を上げ、部長の言葉を遮った。
失礼な部下ですみません、と。
心の中で謝りながら。
「私は土屋さんの指導係です。
指導係の私が、彼女に嫌がらせをされているように見えたのなら、その非は私にあるんです」
気圧されたように黙る、部長。
わかっている、つもり。
“どこ”で“誰”が折れなくちゃいけないか、ってこと。
「私がいると、空気が悪くなってしまって。
皆さんの仕事に、少なからず悪影響を及ぼします」
一葉ちゃんは、得意先の専務さんの娘で。
“理系男子と結婚”という不埒な志望動機。
知識も、向上心もないのに、設計部に配属されて。
勇人に執着して、私を目の敵にしてる。
それが、どんなに理不尽かってこと。
全部、理解できていた。
でも、会社のトップは彼女を非難できる立場にはない。
元凶は、強力なコネに流されて入社させたトップにあって。
そして、自由恋愛に文句は言えないことも。
勇人への“ギブ”は、まだ解けない。
いつ解けるのかわからない。
私が消えれば……少しは状況が改善する。
そう、思い込もうとした。
「チームの皆さんは優しい方ばかりで。
このことを知ったら、私を引き留めようとするでしょう。
ですから、お願いします。
内密に受理していただけませんか?」
しかし……、と。
渋る部長。
だから、最後に厭味を送った。
優しい部長が、決心できるように。
「土屋さんをすぐに異動させるわけにはいかないでしょう?」
苦い表情で、俯く部長。
「久我君は?」
勇人と私が付き合っていること。
部長が知らないはずがない。
「久我チーフだけには、お話ししました。
彼も納得しています」
嘘だから、目を伏せて。
決意したから、真っ直ぐ顔を上げた。
「そうか……久我君と決めたのなら」
頷く部長に、たたみかけた。
「ご安心ください。
再就職先は、ほぼ決まっています。
後は私の予定入社日を伝えるだけ、なんです。
自主希望退社ですから、お気になさらず受理してください」
わかった、と。
苦く呟いた部長は。
すまなかったね、と。
ふるえる声で労ってくださった。
「チーム内の誰にも口外しないでください。
退社日は、できるだけ早くお願いします」
部長に念を押して、デスクに戻った。
動き始めた私は、別人のように強かった。
「おはようございます、久我チーフ」
遅刻した勇人に、挨拶して。
「昨日、どこ行ってた?」
腕を組んで問い質す姿に、笑顔も見せられた。
「友達と遊んで、外泊しちゃった」
言葉を失う勇人に、ちくりと痛む胸。
もう、戻れない。
せめて、私の決意を悟られないようにするだけ。
あの頃の私は言えなかったけれど……
勇人、ほんとはね。
私の目の前で、一葉ちゃんの腕を振り払って欲しかったの。
けどね。
言葉にできなかった。
嫉妬に歪む醜い自分を、さらけ出せなくて。
どうしても”ギブ”してしまう自分に焦って。
勇人の心が動いちゃうんじゃないか、って不安で。
周りのお膳立てが怖くて。
取り繕う私の弱さが、心を遠ざけたんだよね。
チームのみんなにも、久しぶりに笑顔を見せられた。
ずっと。
心のどこかで、表だって庇ってもらえないことに落ち込んでいて。
当事者の私が毅然としてないのに、他力本願すぎる思いだとわかっていても。
一葉ちゃんの棘のある言葉に非難がましい視線を向けるものの、注意はしない。
注意しても、変わらないから。
それどころか、火に油を注ぐかもしれない。
ただでさえ滞っている仕事を犠牲にできなかった。
LQを始めみんな、声を発せられない状況に疲弊していて。
私がチームにいることで、みんなに罪悪感を植えつけてしまうことにも気づいていた。
時間が経った今ならわかる。
私に向けられる一葉ちゃんの敵意に、ずっとオトナの対応をしてくださっていたんだって。
理系人間の特性上、トラブルがあっても、冷静に観察して。
それぞれの状況を把握して納得して、改善点を見出す。
もしかしたら……
自分に置き換えた時、答えが見えてきた。
なにかコトが起きるたび、みんなメモを取っていた。
いつ、どこで、どんな状況下で、何があったか。
人間関係のトラブルには、手も口も出さない先輩方がとった行動。
極力、肩入れしない。静観を貫く。
その陰でデータを収集して、確固たる証拠として表に出すつもりだったとしたら……
今となっては、遅すぎるけれど。
私のアパートの外で一夜を明かした勇人は、風邪をひいてしまって。
3日間、会社を欠勤せざるを得なくなった。
退社した足でそのまま勇人のマンションに向かって、看病。
翌朝そこから出勤。
「ごめんね……。あんなとこで寝かせちゃったから」
泣きながら、懺悔したら。
くくっ、て。
目を瞑ったまま、嬉しそうに笑って。
その時はどうして笑ったのかわからなかったけど……
外泊が嘘だって自白したから、だ。
バカだよね。私。嘘をつき通せない。
勇人の病欠で、勇人と一葉ちゃんが揃っているところを見なくてすんだ。
それだけが、救いで。
部長は、私の気持ちをくみとってくださったのだろう。
受理日を早める操作を行い、一週間後の退社が決まった。
再就職先は、ちゃんと心当たりがあって。
専門学校の友人から誘われていた、OA機器販売会社【キュリオ】の営業部販売促進課。
PCのメンテと、ゆくゆくはPCインストラクターとして。
思えば……
その話をもらったときには既に、一葉ちゃんの対応に悩んでいて。
漠然と、離れることが見えていたのかもしれない。
リセットしたい。
その思いは、あの朝の出来事で鮮やかな形になっていて。
運命は、動き出していた。
最初から、私の存在なんてなかったように。
すべての痕跡を消すことだけを考えて。
新しい住所も勤務先も、絶対に誰にも告げない。
離職票も源泉徴収票も、静岡の実家に送ってもらうよう手続きをした。
そうしながら、一方で。
勇人の心には残りたくて。
緩やかに別れが見えるより、突然いなくなる道を選んだのは……
勇人の心に、強烈な印象を残したかったからなのかもしれない。
裏腹な心を持て余して、ぐちゃぐちゃに醜い私。
週末金曜日。
限られた人物のみが知る、私の退社日。
こっそり、社長室に呼ばれた。
「すまなかった……三和さん」
頭を下げる社長にあたふたして。
その上、1か月分のお給料を現金で渡された。
困ります、と。辞退したのに。
退職金だと思って、と。聞いてくださらない。
退職金が出るのは、勤続3年以上。
私は、1年半しか勤めていないのに。
「“解雇予告手当”ってあるでしょう?
僕は三和君を解雇するつもりはないけど……
退社日を早めたことで、某監督署から突っ込まれる可能性があるんだよ」
困った笑顔と、崩した言葉。
「だからさ。
受け取って印鑑ついてくれないと、訴えられちゃうんだよね」
きわめて可能性の低い事案を口にして。
「僕を。ううん、会社を助けると思って。
受け取ってくれないかな?」
深い優しさに、溢れる涙。
「久我君との結婚式には、呼んでくれるよね」
屈託のない笑顔に、凍りついた。
「悔やみきれないほど、三和君を傷つけてしまった。
結婚して落ち着いたら、復帰を待ってるから。
その頃までにはチーム内が元に戻るよう精いっぱい尽力するよ。
約束するから、ゆっくり心を休めて。ね?」
勇人と結婚……
社長の誤解を解くことなく、社長室を後にした。
最後の夜
退社した金曜日の翌日、土曜日。
いつものように、おうちデート。
もう、社内恋愛じゃない。
社内でも、恋愛でもないのだから。
「明日香、お前のアパートさ……」
勇人の言葉に、慄く。
ぴりりと、喉の奥が灼けた気がした。
“アパートは今日解約したの。
がらんとしていて、もうなにもないんだよ“
言いたい。
言って、引き留めてもらいたい。
引き留めてもらえる保証もないのに。
自分で決めたのに。
狡くて、醜い私。
「あ……ごめ。
あの、私、帰る」
焦点が合わない。
声がふるえる。
はやく。ここから逃げなきゃ。
私、きっと喋ってしまう。
言葉にしてしまったら、勇人を縛ることになる。
「ちょっと待て、どうした?」
おい、明日香。
肩を揺さぶる勇人に、小さく笑って。
「頭が痛いだけ。ごめんね、心配しないで」
最後だから。
最後だけは。
しっかり勇人と目を合わせた。
いつぶりだろう、勇人の目を真っ直ぐに見たのは。
真っ直ぐ見つめる私に、目を瞠る勇人。
心底、嬉しそうな笑顔で。
「頭が痛いなら、余計に帰すわけにいかないだろ。
こないだ手厚い看病してもらったし。
オレがつきっきりで看病してやるから、泊まってけよ」
決心が鈍る。
でも……
―― 最後に ――
甘えてもいい?
もう、困らせないから。
―― 最後だけ ――
傍にいさせて。
もう、我儘言わないから。
「勇人。愛してる」
そう呟いた私に、目を見開いて。
「バカ、オレのほうがもっとずっと愛してる」
そう、笑ってくれたよね。
最後に……
最後だけ。
私は“ギブ”をしなかった。
皮肉なことに。
去ろうとするこの時になって、やっと……。
ずっと悩んで、責め続けたカラダの硬直が解けて。
ただ。
“愛してる、愛してる”と何度も伝えて、熔けるほどカラダを絡ませた。
いつかどこかで会えたら。
私を攫って。
今度こそ、離れないから。
狡い私は、勇人に呪縛をかけたつもりでいた。
なのに、今。
あっさり破られて。
勇人の隣に、一葉ちゃんがいるなんて。
翌朝。
暗いうちにそっと勇人の腕を抜け出した。
勇人はぐっすり眠っていて。
愛しい寝顔に、笑みと涙が一緒にこぼれた。
歯ブラシもスリッパもパジャマも全部持ち出して。
スペアキーは、そっとポストへ。
こつん、と。
ドアにひたいをよせて目を瞑る。
さよなら、と呟いて。
もう見ることのない、最後の風景を目に焼きつけた。
そのままタクシーを拾って、あの街を後に。
勇人との思い出が、いっぱい詰まった街。
暇だと、泣いてうじうじ悩む。
わかっていたから、翌週から【キュリオ】に出勤した。
贈られた指輪を、“もう恋はしない”という戒めにして。