【もとかれ】第4話 ジレンマ
定番デート
学生時代からの小さなアパートに住む、私。
1LDKの綺麗なマンションに住む、久我さん。
自然な流れで。
お休みの日には久我さんのマンションにお邪魔して、おうちデート。
二人ともインドア派だから、DVDを観たり、お料理を作ったり。
たまには、“おそとデート”と称してショッピングやドライブに。
レンタルショップでチョイスするDVDは、コメディもので一致していて。
笑いのツボとタイミングが、一緒なのが心地好くて。
お料理は、由香里ちゃんにも褒められてたし、自信があったんだけど。
久我さんには、完敗だった。
カレーはスパイス調合から。
手作り皮だけでも驚きなのに、餃子の包み方もプロ級で。
パンだって。
今日はパン作るぞ、って言われて。
やった!
ずっと気になってたキッチンのホームベーカリーで食パンを作るんだ、って。
わくわくしていたら。
生地だけホームベーカリーにお任せして、デリカパン&ベーグルに挑戦! だったり。
一人暮らしをしている男性の部屋に、ホームベーカリーも驚きだけど、オーブンがあるなんて。
「明日香ってさ、未知の領域に足を踏み入れると、目がきらきらするのな」
お前といると、ホント楽しい、と。笑ってくれて……
……だけどね。
久我さんが思ってる以上に、私の方が楽しかったの。
どんなにデートを重ねても。
あの時、私が泣いて、逃げたから。
久我さんは手をふれるくらい。
車に乗るときと、降りるとき。
はぐれそうになったとき。
ハグも、キスもない。
いつものように、手をとられ車から降ろされた。
もう、冬はすぐそこ。
木枯らしが冷たくて。
「おやすみ」
そう、微笑む久我さんが遠くて、淋しくて。
ふれた手をぎゅっと握って、じっと見あげる。
「……明日香」
いつかのような、掠れた声。
「部屋に、入れ」
視線を逸らそうとするから、ぎゅうっと握りこんだ。
「ばか。誘うな。……我慢の限界」
彼の胸元に頭をぎゅっと抱きよせられた。
やっぱり、我慢……させてるんだ。
「我慢、しないで」
泣きそうな気持ちを抱えて胸の中で呟くと、ふわりと緩む腕。
至近距離で顔を覗かれる。
「泣きそうじゃねーか」
にやりと笑う久我さん。
小さいコを宥めるように、ぽんぽんと頭を軽くさわって。
じゃーな、と。踵を返す。
「部屋に入れ。あの窓から顔出すまでここで見てるから」
こちらを見てもくれない。
言いつけ通り、とぼとぼと部屋に向かう。
後ろ髪をひかれるように、何度も振り返りながら。
覚悟
クリスマスには! と。意気込んだ。
恒例のおうちデートで、ローストチキンとブッシュ・ド・ノエルを完成させて。
プレゼントはブランドのキーケース。
メンズブランドに疎い私は、由香里ちゃんにリサーチした。
そして……
「これも。あの。
……もし、よかったら、も、もらってくださいっ」
ラヴリー・カルテットお手製のリボンを、頭に巻いて。
自分を指差しながら、精一杯にっこりしてみた。
ばっ……。おまっ、なっ!
怒った顔。散乱する言葉の断片。
「誘ってんのか」
ぐ、と詰まって。
負けない、と。おなかに力を入れた。
「誘ってますっ」
いつもなら怯む私が、食い下がるから。
さすがの久我さんもトーンを下げる。
「……誰の入れ知恵だ」
低い、声。
ほぼ恫喝じゃん。
これでも、ビギナー向けの方を選んだんだから。
まあ、二者択一&多数決だけど。
由香里ちゃんなんて、“押し倒せばOK”って言い張るし。
「ラヴリー・カルテットです……」
あいつら、と。呻く久我さん。
訊き返さずに納得しているところを見ると、その呼び名は広く定着している様子。
「意味、わかってんのか」
ため息混じりに呟く彼に、ムキになる。
「わかってますっ」
きっぱり言い返す私を睨んで、腕組みして。
「覚悟は、できてんのか」
覚悟……。
それは、そのぉ。
口ごもる私に大きなため息をつくと。
呆れたように目を細めて。
「ガキのくせに。
いっちょまえにサカってんじゃねーぞ」
吐き捨てて、背を向ける。
……ガキ。
……サカる。
唇がわなわなと震え、涙がぽろぽろ零れた。
抑えたのに。
うくっ、と。声がもれて。
久我さんが、勢いよく振り返る。
「泣くなよ。
明日香に泣かれると、たまんねーんだよ」
困らせてる、呆れられてる。
つらくて、痛くて、悲しくて。
「……しゅび、ばしぇ、っえ! んッ?」
絞り出したマヌケな声は、久我さんの唇の中。
そのまま、なんども、なんども。
キス。
んっ、と。
甘く、くぐもった声が口から零れて、我に返る。
「っや!!!」
彼の胸を押して離れ、肩で息をした。
ほら見ろ、と。言わんばかりの呆れ顔。
「だって。変な声が出ちゃって。
は、はずかしいですッ」
つむじから湯気が出てるはず。
ばーか。それはな、と。
腕を組んで、威張って見下ろす久我さん。
「オレに夢中だっていう証拠。
はずかしがるなよ。オレは嬉しいんだから」
くくっ、と笑って、ぎゅうっと抱きしめてくれる。
こんなに近づいたのは、数えるほどしかなくて。
あの応接室の時と、初デートのハグ、この間だだをこねた時。
「こうされて、いやじゃねーか?」
肯定の代わりに、久我さんの大きな背中にそっと手を回した。
「我慢しようと思ったのに」
胸から響く声に、顔を上げる。
「私が逃げたから?」
訊いてるのに、そっぽを向く久我さん。
かろうじて見える耳の縁が紅い。
「ヤベえな。
明日香が泣くと、ぞくぞくする。
そんで、タガが外れる」
そういえば。
最初のキスも、涙がきっかけだったような。
思い返している私を睨むように覗き込んで。
言っとくけどな、と。低い声。
「明日香の泣き顔、限定だぞ」
それって。
喜んでいい言葉、だよね。
にやにやしている私を横目で睨んで。
「手、貸せ」
両手をぱーにして差し出すと、右手を掴んで。
「左は、あとのお楽しみ」
左手をそっと下げさせた。
「目、瞑れ」
素直に目を瞑ると、右手に違和感。
ちゅっ、と。
唇に甘い音を響かせて。
見ていいぞ、と囁く。
ゆっくり瞼を開くと、薬指が煌めいていた。
「ゆび、わ?」
クリスマスプレゼント、と。
照れたように笑って。
ピンクゴールドでハーフエタニティタイプのリングは、右手薬指にぴったり。
「サイズ、どうしてわかったんですか?」
素朴な疑問なのに、ぎろりと睨む久我さん。
「人の気も知らないで、のんきにうたた寝してたろ。
その隙に糸巻いて計ったんだよ」
なる、ほど。
そうでしたか。すみません。
首を竦めた。
相性
セカンド・キスのクリスマスから数日。
今年も、あとほんの少しだけになった。
「じゃ、正月は、明日香んちに挨拶に行くかな」
唐突すぎる久我さんの提案。
なぜ? と。首をかしげれば。
「誘ったんだよな、明日香。
意味わかってて、覚悟決めて」
あの、ときの。
私の精一杯の決心を……
そうやって面白そうに蒸し返して。
ほんとに、いじわる。
「オレは明日香の“初めて”を“全部”貰うんだし。
大切に育ててくださったご家族に挨拶するのは、とーぜんだろ」
え、あ。全部を。
……貰う?
それよりもっ!
なんて、挨拶するつもり?
「今年は明日香の全部をいただきますので、どうぞよろしくお願いします、ってな」
口をパクパクさせる私の頭をくしゃっとかき混ぜて、おでこにキス。
「そんなことしたら……逃げられなくなりますよ」
は? と。久我さんは眉を上げて。
「逃がす気はねーぞ」
腕を組んで、じろりと睨まれた。
違いますってば。
私じゃなくて。
久我さんが逃げられなくなるの。
「だって、その。
ちゃんと。
“相性”みたいな……そういうの、確かめる前に、そんな。
家族に挨拶なんて。
だめ、なんでしょ?」
ふう、と。ため息。
窺うように恐る恐る見上げれば。
明日香……、と。怒った顔。
また、不機嫌。
「なに、色々耳に入れちゃってるわけ?
誰、情報だ」
腕組みのまま、鋭さを増した眼光で睨みつける。
「由香里ちゃん、です。
カ、カラダの相性は大事だって。
“怖いからって、避けて通ってたら不幸になるわよ”って……」
はぁ、と。
大きなため息、呆れ顔。
「まったく、お前のねーちゃんは。
どうして“オレの明日香”にいろいろ吹き込むかな」
オレの明日香……。って。
もう、どうしよう。
「ばーか。
相性なんてな。どうにでもできる。
要は、明日香をメロメロにさせて、オレ好みに仕込めばいいんだろ」
な、な、な。
なんて、フシダラな言い方。
結局。
急な仕様変更が入って、二人ともお正月休みはほとんど返上だったから。
挨拶は立ち消えで、ほっとした。
「ま、今回はいいだろ。
さっさとヤッとけって、お前のねーちゃんのお墨付きもあることだしな」
由香里ちゃんは、そんな言い方してませんよぉ。
そういえば、と。
思い出したように、久我さんは口にする。
「明日香のねーちゃんって、年いくつ?」
頬が引き攣った。
だって。由香里ちゃんは、ほんとに綺麗で。
背の高さも、雰囲気も。
そして性格的にも、久我さんとお似合いだから。
「由香里ちゃんに興味あります、か?」
上目遣いに訊くと、驚いたように目を瞠って。
あの、何度も目にした黒い笑みを浮かべた。
「妬いてんのか?」
嬉しそうに口角を上げる。
いじわるだ。
はい、と。
答えながら、泣きそうになる。
「ばか明日香」
嬉しそうに呟いて。
ちゅうっと、いつもより強く長く唇をいたぶられた。
ぽぉっと見上げると。
久我さんの胸にぎゅうっと顔を押しつけられて。
「明日香にとって“ねーちゃん”でも、オレより年下なら……
家族になったとき、なんて呼ぶのかと思っただけ」
さらっと爆弾発言。
驚きすぎて、口を開けたまま見上げたら。
大きなため息。
「明日香って、超鈍感だろ。
指輪渡す時にも言ったぞ」
スル―しやがって、と。不満顔。
え、え、ぇえ~?
「“左は、あとのお楽しみ”って。
クリスマスにちゃんと言ったけど?」
そう、だったっけ。
「ああ、あと。
ついでに。
よっちゃんってヤロー、いくつだ」
ん? あ。このぶっきらぼうな言い方。
……これは。
「久我さん。……“妬いてんのか?”」
調子に乗ったら、唇で窒息されそうになった。
冗談なのに、お仕置きがえっち、だ。
「由香里、ちゃんは、30、歳です。
よっちゃんは、えーと。
私と由香里ちゃんの中間、25歳くらいでいいと思います」
肩で息をしながら告げると。
そっか、と。呟いて。
「じゃ、お前のねーちゃんは、“お義姉さん”って呼べばいいんだな。
もう一人はオレと同じくらいか。
ま、いーや。
“おい”って呼んどく」
おいっ、て……。
せめて“おいヤンキー”ぐらいにしたら……険悪になるよね。
その日、夕ご飯の後。
いつもみたいに、キスをして。
でも、だんだんいつもより深いキスに変わっていく。
ん? というくらい微妙だった変化が。
え? に変わり。
急にその先が怖くなる。
……やっ、ちょ、と。
驚いて、開いた唇。
その隙間に侵入する……彼の……
たぶん、そう。
こ、これが、噂の。
オトナの、キス。
カラダにぽぉっと火が灯ったように火照って。
キスの熱は全身に伝染していって、指先が震える。
……んっ
もれた吐息が合図になって、焦るように、急かされるように。
求めても足りないくらい夢中になって、キスを繰り返した。
ぼんやりと視界に映る、満足そうな笑み。
意識朦朧、肩で息をする私を見下ろして。
可愛い、と。呟く久我さん。
もうちょい、進めとくか。
意味不明な囁きが、ぽわ~んと夢心地の中、聞こえたような。
ちゅっ、と。
唇が音を立てたと思ったら。
彼の唇が私の頬を滑り、耳をなぞり、耳朶をかぷりと食む。
甘い、声。
それが、自分の唇からもれている事実に狼狽える。
やだ、なんか、おかしい。
こんな声、私、知らない。
抗う気持ちを凌ぐ、甘い熱。
首筋を唇でなぞられて……
ぴくんっ、と。
カラダが勝手に跳ねる。
くすぐったいはずのそこが、甘く痺れて。
あたまに、幸せな靄が流れ込むような。
おなかの、もうちょっと下……のへんがきゅうんと縮むような。
未知の感覚に流されまいと、ぎゅっと、彼の肩を握りこんだ。
それでも。
彼の大きな手が私の胸を覆ったとき、羞恥で我に返った。
「やっ!!!」
いつもの私の声が戻ってきて。
くるりと身を翻す。
はず、かしい。
「今日はここまで、だな」
うなじに熱い息を感じて。
ぴくんっ、と。また跳ねた。
これって生物学でいう“体性反射”だ。
特定の刺激に対する反応。意識しなくても起こるもの。
なるほど……、と。実体験に感動していたら。
「明日香」
久我さんの神妙な声。
“体性反射”に意識を持って行かれていた私は、はずかしい気持ちも忘れて、久我さんを見上げた。
「少しでも。
ほんのカケラでも。
怖い、嫌だ、って思ったらオレにわかるように拒否しろ」
いいな、と。
真顔で念押しして。
「もう、二度と。
あんな思いはしたくない。
明日香に逃げられるのは、耐えられないから」
苦しそうに顔を歪める久我さん。
きゅうん、と。胸が疼いた。
それと……、と。今度は黒い笑み。
「嫌な時は、“ギブ”って言え。
曖昧な声出されると、煽られる。
そうなると、ストップが効かねーの。
勘違いして、突っ走ったらヤバいだろ?」
訊かれたから、とりあえずこくこく頷いて。
意味はよくわかんないけど。
ヤバいことになるとまずそうだから、“ギブ”という言葉を使おうと決めた。
オトコの一人旅
そのまま、ソファを離れるから。
「どこ、行くんですか?」
不安になる。
呆れられたかも。
ほんとは、めんどくさいって思ってるかも。
「ちょっと、そこまで。
理性を取り戻す旅に、な」
理性を?
……どういう意味。
「このままだと、体にわりーの、たぶん。
それに、ほっとくと絶対暴走する。そしたらヤバいだろ。
だから、宥めてくる」
全ッ然、意味がわかんない。
けど。
体に悪いなら、笑顔で見送ろう。
「明日香は一歩も動くなよ。
そこでちゃんとさっきの復習してろ」
復習。さっきの?
さっきの……、って。
はずかしすぎて。
ぽふっ、と。ソファのクッションに、顔をうずめる。
さっきの……
鼻にかかったような甘い声。
あんな声が出るなんて。
“夢中だっていう証拠”
クリスマスに言われたっけ。
久我さんに、夢中。
初めての恋にこんなに夢中になって、いいのかな。
私には、基準がわからない。
久我さんは、ヒいちゃわないだろうか。
少し、自制すべき?
あー、もう。わからないっ!
「なに、暴れてんだ」
シャワーを浴びたらしい、久我さん。
ボディソープとシャンプーのいい香り。
「ちゃんと復習したか?
何なら、もう一回おさらいしとく?」
タオルの隙間から細めた瞳。
ぶんぶん、と首を振る。
「復習は、ちゃんとしろ。
だたしアタマの中だけ、な。
だけど、予習は禁止。
アタマも、カラダも。
それから……そうだ、耳もだ」
学校では“予習・復習”ってセットだったのに。
首をかしげて、彼を見る。
「明日香、新しいこと知るの好きだろ?
だからって、妄想とか噂とかでヘンな先入観持たれたら、進めづらいし。
それこそ、他で予習されちゃたまんねーからな」
他で、予習。
それって。
「他でって……
そんなこと、しませんっ!」
学校の勉強でわからないことを塾で教わる、っていうのとは、わけが違うもん。
「それと。
ねーちゃんに訊くのも禁止。
余計な情報を明日香の耳に入れる、要注意人物だから」
うぅ。不安。
下唇が突き出て、きっとすごく情けない顔になってる。
くくっ、と。
低く笑った久我さんは、ぽんぽんと私の頭を撫でて。
ちゅっ、と。鼻の頭にキス。
「わかったな。
オレが最初から全部、教えるから」
すごく幸せ、って。
愛されてる、って。
私、自惚れてたの。
久我さんの講義はゆっくりで。
だから。焦ってた。
由香里ちゃんからのレクチャーで、“理性を取り戻す旅”の大まかな意味を知ってしまったから。
もうちょっとだけ我慢してみよう、そしたらきっと次のステップに行けるはず。
そう、覚悟を決めた途端、久我さんはすっと距離を置く。
「ギブ、だろ?」
小さく頷く私に、優しい笑顔。
ちゃんと言え、と。
頭をくしゃくしゃかき混ぜられて。
「遠慮すんな。オレがゆっくり育てたいんだから。
絶対苦しくないように、明日香をとろとろにしてから……」
危険そうな発言に、慌てて久我さんの口を両手で塞いだ。
押さえた私の手の平を、ぺろりと舐めて。
怯んで緩めた両手を、久我さんは難なく片手でまとめると……
私の頭の上でがっちりホールド。
妖艶に煌く瞳を逸らさずに。
もう片方の手で頬を覆って、親指で唇をなぞる。
「オレを黙らせたかったら、こっちの方が効果あるぞ」
黒い笑みが近づいて、深いキスを降らせる。
夢中でこたえる私。
ヤベ、もう限界、と。
切なそうな顔でソファから離れる、彼。
「いつもの“旅”に出かけてくる。
いい子に脳内復習しとけよ」
待って、と。
彼の腕を掴もうとした手は、虚しく空を切った。
「……私に、できること、ないですか?」
散々翻弄されて、朦朧としながらも。
バスルームに向かう彼に、追い縋るように言葉を掛けた。
久我さんは足をぴたりと止めて。
はぁ、と。深いため息。
「オトコの一人旅って、いうだろ?」
キャッチコピーみたいな感じ?
聞いたことある、かも。
こくん、と頷く。
「オレ、オトコだから。
旅は一人で行くもんなんだよ」
そっか、と。
ふにゃんとした声で見送って、まどろむ。
久我さんの講義のあとは、力が入らなくて。
脳内復習どころか、睡眠学習に近い。
やっと覚醒した時には、旅から戻った久我さんが私を覗きこんでいて。
明日香、と。低い声。
「オレ、“耳も”って言ったよな。
さっきの、あれ。
……誰に、なんて、唆(そそのか)された?」
さっきの……、呟くと。
「一人旅を“手伝う”ってヤツ」
ぶっきらぼうに返された。
「誰にも、何も聞いてませんっ」
俯いて首を振る。
「理性を取り戻す旅、の内容は……なんとなく。
その、おぼろげに教わりました。
でも、由香里ちゃんが」
ちらっと見上げると、タオルの隙間から睨んでて。
「また、ねーちゃん、か。
んで、ねーちゃん、なんだって?」
ため息まじりに訊ねる久我さん。
「久我さんのこと、”なかなかデキたオトコ”、だって。
”カレに任せとけばだいじょうぶでしょ”
そう言って、突き放すから……私」
そう。
いつも過激発言を連発する由香里ちゃんが、今回ばかりは静観で。
だから。
どうすればいいのか、途方にくれて。
「ねーちゃん、いいこと言うじゃん」
だって、私ばっかり……、と。
泣きべそのまま、小さな声で呟いたのに。
「私ばっかり、なんだ?」
スルーしてほしいひとりごとを、そうやって訊きかえす。
いじわる。
「きゅうん、ってなって。
……あの、幸せで。
久我さんも、そう、なってほしいのに」
ぽろぽろ涙がこぼれる。
「私、じゃ、手伝えない、ですか?」
しゃくりあげながら久我さんを見上げると。
頬を紅くして、天を仰いでいた。
「聞いて、くださいっ」
ダダをこねるコドモみたい。
わかってるけど……。
「ばか。聞いてるって。
今、明日香の顔見たら、止められねーの」
なんで?
「止め、ないで。奪って」
うぐうぐ言いながら、一生懸命伝えてるのに。
やだ、って。一蹴。
「オレは奪ったりしない。
オレは、明日香となら無条件で幸せになれる。
だけど、明日香は初めてだから……苦しいと思う。
ふたりで一緒に、ちゃんと幸せになりたいんだよ」
素直なキモチ
数えきれないほどの私の“ギブ”と。
久我さんの理性を取り戻す“オトコの一人旅”。
今まで、努力して乗り越えられない壁はなかった。
なのに、これは。
まだ大丈夫、って思っているのに……
すっと退いてしまう彼がもどかしくて。
少しだけ強引に、奪ってほしいのに。
でも、そんな、はしたないこと言えないし。
とにかく。
私の心が少しでも硬くなると、敏感な彼に気づかれる。
“平常心、平常心”
そう、小さく唱えて、深呼吸。
明日香、と。
諭すような優しい声。
「気負いすぎ。
こっちまで緊張するだろ」
おでこを優しくつつかれて。
「アタマで考えるな、オレを信じてココロを任せればいいんだよ」
言っただろ、と。微笑んで。
「オレは突っ走らねーよ。
明日香がココロまで全部オレに預けてくれるまで、待つ。
今日の講義は終わり。
実技じゃなくて、学科のみ、な」
”学科のみ”っていう宣言通り。
焦る私を、優しくくるんで。
ただ、抱きしめて眠った。
2月。
近づいてくるバレンタインデーにうきうきして。
“好んで食べるほどじゃない”、と。
強情なくらいに言っていた久我さんが。
ほんとは甘いものが大好きなこと。
オーブンがマンションのキッチンに鎮座している理由は、自分で焼くため。
ケーキ屋さんにひとりで入るのが、億劫だから。
そんな些細なヒミツを知るたびに、ココロが近づいていく。
ココロを任せる、ということ。
それが無条件に彼を信じること、だと。
気づいたのは、この頃で。
はずかしいと思うのは、久我さんに引かれるんじゃないかという恐怖心と猜疑心。
それは即ち……“不信”にあたる。
明日香……可愛い……
何度も何度も耳元で囁く、魔法の言葉。
1ヶ月かけて、少しだけ甘くとろけたココロ。
ふれている時間と範囲がだんだん広がって……
「名前で呼べ」
掠れた声で囁く。
「……勇人、さん」
呼んだとたん。
とくん、と。
胸が高鳴って。
“大好き”が、あふれて止まらなくなった。
バレンタインデー。
なんのつかえもなく、ココロとカラダが昂ぶって。
……初めての感覚に身を委ねた。
白くはじけるアタマ、ふわりと浮くカラダ。
言葉に表せないほどの、幸せなとき。
「……はや、と……さん」
感じた幸せを伝えたくて。
声にすると、深いキス。
何度も何度もキスを繰り返し、合間に私の名前をうわ言のように呼ぶ。
熱にうかされたような瞳。
紅潮した頬。
愛しそうに何度も。
明日香、明日香……、と。
「移動、する」
掠れた声に、優しく耳を擽られて。
ふわりと抱き上げられた。
力が入らない私。
啄ばむようにキスを繰り返し、ゆっくり歩く。
抱き上げられたことに、抵抗もしない。
いきなりの移動にも慌てない。
だって、これからもっと幸せになれることを知っているから。
――二人で――
リビングからベッドルームへ。
ベッドの上にそっと下ろすと。
目を細めて、私の髪を撫でて。
「いいか?」
至近距離で瞳を覗かれて、深く頷く。
ちゅっ、と。合図のキスをして。
――二人で……幸せになった――
言っとくけど、と。
幸せのまどろみから覚めた私を、愛しそうに覗きこんで。
「これは、一番シンプルなコースだから」
照れをにじませた幸せそうな笑顔とは、裏腹な宣告。
固まる、私。
「オプションは、限りなくあるんだぞ。
明日香が生意気言ってた“オレを手伝うワザ”とかな」
ほんと、ですか? と。
目を輝かせたら。
久我さんは呆れたように、頭をぽんぽんして宥めて。
「明日香は……
未知の領域に興味持ちすぎ。
しばらくは、これでいいんだよ」
でも、と。
口を尖らせる私の頭を抱えて、裸の胸にだきよせる。
「オレは、シンプルコースで大満足だし。
それに……
急ぐ仲じゃねーだろ。
死ぬまで、一緒なんだから」
胸から響く声。
――死ぬまで、一緒なんだから――
そう、言ってくれた……のにね。