【もとかれ】第2話 甘い記憶
初対面
メカトロニクス系【M・Dカンパニー】の設計部、CADチーム。
25人のチームだけれど、女性が極めて少なくて。
私以外4人の女性はみんな既婚者。しかも同じチームの職場内結婚。
アット・ホーム、とは……お世辞にも言えない過酷なオフィス。
怒号が飛びかうわけではなく、じわじわ追いつめられる殺伐とした過酷さ。
静かにキーに触れ、マウスを滑らせ、ディスプレイを睨む面々。
……風呂、入りてぇ。
……仮眠とるから10分後起こして。
……腹減った、なんかくれ。
……コー、ヒー。
地の底から響いてくるような、声、声、声。
私は久我チーフのアシスタントとして配属された。
「どっちも苗字、どっちも名前みたいだな」
それが、第一声。
三和も、明日香も。
あ、ほんとだ。
どっちも名前、は言われたことあるけど。
どっちも苗字だ。
感心する私に、くくっと笑って。
長めの黒い前髪。
その隙間から切れ長の瞳が覗いた。
つい、見とれちゃったっけ。
そんな私をじっと見て。
「明日香って呼んでもいいか?」
そう、訊かれた。
その瞬間。
ハートが射抜かれた、気がした。
ベタな表現だけど。
いきなり、名前?
戸惑ったけれど、聞けば美和さんという名前の女性がチームにいるとのこと。
ああ、それで。
とくとくする胸の鼓動を宥めたけれど、時すでに遅し。
「明日香って呼んでもいいか」のひとことで。
心に、淡い恋が舞い降りた。
それでも。
PC大好き理系女子は、覚えることの多さに夢中になって。
勉強してきたことを実践できる楽しさに、淡い恋心はなす術もなくふわりと消えていった。
「明日香はツカえるやつだよ。
ま、そこそこ、だけどな」
失礼気味な久我チーフの評価もすごく嬉しくて。
新入社員でもできる仕事を探してくるくる働いた。
書類の整理、コーヒーを淹れる、マグカップを洗う、請われれば男女を問わず肩もみも。
肩もみは、ちゃんとチーム内の奥様方に了承を得た。
人目のあるオフィス内で、いくら頼まれたこととはいえ。
旦那さんの肩もみを、他の女子社員がやってるなんて……
やっぱり気分悪いもん。
だけど、4人の奥様方は理系女子特有のサバサバ系で。
いいのよ、こっちこそごめんね~、なんて。
あっけらかんと言われて、すごく重宝がられた。
いい気になって、ツボの本なんか買ったりして。
先輩に可愛がられて、仕事も面白くて。
のどかで楽しい日々が続くと疑わなかった……のに。
告白
「明日香」
不機嫌な、低い声。
見上げれば、声の主は久我チーフ。
あ。怒ってる。
なんか、やっちゃったのかも。
「ちょっといいか」
呼ばれたのは、簡易応接ブース。
薄い壁と、窓と、ドア。
チーフはドアをばんっと閉めるなり、窓のブラインドをかしゃんと閉じる。
ブラインドの隙間からちらりと目に映った、チームの面々のにやにや顔。
軽~い密室、だ。
え、と。ちょっとこわい。
立ち竦む私。
ソファにどっかり座り、長い脚を組むチーフ。
「明日香はさ。
オレのアシスタントだよな?」
「は? ……い、そうです」
涙ぐみながら頷く私の腕をつかんで、ぐいっと引っ張る。
引っ張った力のベクトルは、なぜか久我チーフの膝の上。
むう、と。とっさに踏ん張る。
「なんで拒む。……いやか」
眉間に縦じわがたくさん。
不機嫌そうな……ううん、なんていうか切なそうな顔。
きゅうんと痛む、胸。
首を必死に振って、いやじゃないことを目いっぱい意思表示。
「重いです、もん。大腿骨が折れますよ」
痛む胸をきゅっと押さえて。
こぼれそうな涙を見られないように俯きながら呟いた。
「……ばか」
私の腕を掴んだ右手はそのままに、立ち上がった久我チーフは。
左手で私の肩を抱きかかえ、ソファにぽすんと座った。
なに、この体勢。
……横、抱き?
膝の上で、いわゆる……あの、お姫様抱っこ。
感情的なショックと、物理的な衝撃に耐えきれず。
涙がぽろりとこぼれた。
目を瞠ったチーフ。
一拍置いて……
にやり、と口角を上げる。
「明日香は、オレ専属のアシスタントだろ。
あんま、妬かせんな」
頭が回らない。
色々すっ飛ばしてる気がする。
仕事のことで怒ってるなら、この体勢はおかしいし。
仕事じゃないなら、伏線が何もない。
ぽかんとあけた私の唇に右手を伸ばす、久我チーフ。
そのまま、ゆっくりと上下の唇をなぞって。
「オレだけ、見てろよ」
掠れた声。
片方の唇を上げた彼が、照明を遮る。
目を見開いて、固唾をのむ、私。
射るような視線が、男の人なのに、ぞくぞくするくらい色っぽくて。
目が、離せなかった。
彼の前髪が私のこめかみを擽った、次の瞬間。
ふにっと、唇を柔らかく包まれる感覚。
そして――
ちゅっと。軽い音。
……キス、された。
ぽわ~んと見つめる私に、彼は満足そうに目を細めて。
「……初めてか?」
なんて訊く。
逃亡
その瞬間、我に返った。
渾身の力を振り絞って、久我チーフの腕から脱出する。
「明日香っ!!!」
掴もうとする手を躱して、一直線にドアへ。
内開きのドアを開けると。
うわぁっ! 声が上がる。
見れば、チームの男性社員が2、3人転がりこんでいて。
その上をぴょんぴょんと跨いで、とにかく走った。
とりあえず、色気も素っ気もなく女子トイレに逃げ込んで。
個室の中で、わんわん泣いた。
どうして涙が出てくるのが、何がきっかけなのかはわからないけれど。
みっともないほど泣きじゃくって。
……涙が枯れ果てたころ。
「明日香ちゃん、大丈夫?
そろそろ出ておいで」
チームの女性陣、4人全員が迎えに来てくれた。
私のバッグを手にした彼女たち。
抱えられるように連れて行かれたのは、お洒落な居酒屋の個室で。
オフィスに戻ることなく脱出できたのは、ありがたかったけれど。
あんな風に逃げてきて、これからどうしようと頭を抱えた。
「週明けから“バンビちゃん”ってあだ名になるから、よろしくね。明日香ちゃん」
私が明日香と呼ばれるきっかけを作ってくれた、美和さんが笑う。
「週明けって。
……わだじ、もう、会社、に、行けば、しぇん」
しゃくりあげながら訴えると、4人ともぽかんとする。
「ちょっと待ってよ。かわいすぎ~」
「あの短時間でどこまでされたの?」
「やだ、久我っち……早っ。早すぎる」
「鬼畜ぅ~」
口々に言い、きゃははは~っとハモる先輩方。
唖然としながら、もう一つの疑問を口にする。
「ど、して。バンビちゃん、ですか?」
首をかしげると、笑い声が一層大きくなった。
あんまり楽しそうで、つられて笑ってしまう。
笑ったら、少しだけ心が晴れて。
「ぴょんぴょ~んって軽やかに飛び越えて行ったでしょ?
だからバンビちゃんって命名したの」
「名付け親はうちの旦那」
四人のうちの一人、チカさんが笑って。
ユリさんも、ノリコさんも、美和さんも、すごく楽しそうだったから。
涙がひっこんだ私も、くすくす笑った。
尋問
「久我っちのこと、嫌い?」
急に訊かれて、喉がひゅっと鳴る。
少し考えて、首を横に振った。
「じゃあ、びっくりしただけ?」
うー、と。天を仰いで。
「びっくり、も……しました。
でも……頭がついていけなくて」
「言ってみて。ちゃんと聞くから」
先輩たちの真剣な視線に、おずおずと話し始める。
「私、決めてて。
ちゃんと好きな人と、手をつなぐって」
ぅうん? と。
微妙な四重奏がもれる。
「久我チーフのことは嫌いじゃないです。
実際、恋に堕ちそうな時期もあったし」
色めきだち、身を乗り出す先輩たち。
「でもっ!」
息を吸って大きく言う。
「おぉうっ!」
のけぞる先輩方。
「ちゃんと“好き”って言われてないし、言ってない、です。
手もつないでないし、デートもしてないのに。
いきなり、あれでっ、しかも……」
初めてか? なんて。
鳥の唐揚が涙で滲んだ。
「あ。あれだ。見解の相違」
美和さんが理系女子らしく、さくさく解説してくれる。
「久我っちはさ、頭の中で組み立てちゃって結論が出てんのよ。
仕事もそうじゃん?
突飛に見える行動も、全部想定済みでさ。
できるだけ、いろいろ省略して結論に持ってきたいタイプ。
言わなくても、わかるだろってヤツ」
うんうん頷く、3人と私。
「明日香ちゃんはさ、順を追って積み重ねるタイプでしょ。
仕事も丁寧で。
1度目はメモをささっと取って、2度目にはそのメモを清書してマニュアル化しながら復習するタイプ。
たまにしかやらない、あのややこし~い基盤のアクセス解析も。
2度目にはメモを見て、誰にも訊かずにさくっと終わらせるもんね」
そうそう、と3人。
「久我っちの恋バナって、今まで聞いたことないからな。
あのルックスだから……何もなかったとは思えないけど。
学生時代はわからないけどさ、ずっと仕事一筋だしね」
チカさんの呟きに、少しほっとして。
「まじめだよ、久我っちは。
ちょっと言葉が足りないだけ」
ユリさんのフォローに心が揺れて。
「ちゃんと久我っちと話してごらん。
いつでも相談に乗るからさ」
ノリコさんの励ましに、「はい」と頷いた。
「……というわけで。
善は急げ、ね」
美和さんの言葉が、終わるか終わらないか。
背の高い人影が、押し入ってきた。
謀略
「じゃ、あたしたちはこれで~」
「あとは若いお二人で~」
「久我っち、ごちそうさま~」
「バンビちゃん、また来週~」
あっという間にいなくなった先輩方。
残されたのは、私と……そっぽを向く久我チーフ。
「ごめんなさい」
「悪かった」
同時に発した私たちは、しばし見つめ合って、苦笑い。
「隣、いいか」
はい、と。答えて、スペースを開けながら
狭いですよ、と言うと。
「正面は、キツい」
苦しそうに呟くから、また悲しくなってくる。
あー、と。
困ったように髪をくしゃりと握って。
「その。はずかしくてキツい。
嫌だって意味じゃない、から」
ぼそりと言う、久我チーフの耳朶が紅くて。
私の頬も熱くなる。
「なんで、逃げた?」
嫌いじゃないっていうのと、恋に堕ちそうな……っていうくだりは。
隣で聞いてた、と。
隣の個室を指差すから。
先輩方に“イイ意味”で謀られたのだと、ようやく気づいた。
「どれがダメだった?」
あの体勢、か。
それともキス、か。
初めてだったから、か。
小さく訊く彼。
「どれも嫌じゃなかったから。
……それが嫌だったの。
初めて、だったんです。
初めて、だったのに。
頭がぼうっとして流されそうになった自分が、嫌、でした」
そっか、と。
呟いた久我チーフは、少し安心したように笑って。
「そういうところが、……」
好きだ、と。
小さく耳元で。低く、甘く、囁いた。
ラヴリー・カルテット
その晩は、連絡先を交換しただけ。
他愛もない話をして、アパートまで送ってもらった。
月曜日、久我チーフは出張。
でも、アシスタントの私はお留守番。
私がお休みをいただいていた土曜日。
久我チーフは出張の社内打合せで休日出勤。
日曜日には、前泊するため出張先に向かった。
金曜日に発生した“応接ブース事件”の余波を思うと、気が重かったけれど。
月曜日は、当事者2名のうちの1名として出勤した。
みんなオトナだからか。
誰も、何も、見ざる、言わざる、聞かざるで。
“生温か~く見守っているんだよ”オーラが、色濃く漂っていた。
お昼休み、4人の先輩に囲まれた。
一部始終を吐きなさい、と。詰めよられて。
素直に、ありのままを話したのに……
4人揃って、大きなため息。
「進展なし~?」
「からかえないじゃん」
「ゆっくり系なんだね」
「純愛、じゃん?」
不満そうに言いながら、心配してくれる先輩方。
ほんとうに救われた。
「あの。ほんとに。
ありがとうございましたっ」
そう深くお辞儀をして見上げると。
ぽ・ぽ・ぽ・ぽ~っ、と。
輪唱のように先輩方の頬が紅く染まった。
「久我っちがあそこを使う日がくるなんてね」
感慨深そうな美和さん。
「あの応接室にはジンクスがあるの。
あそこで始まったカップルには、永遠の愛が約束されるでしょう、的な」
「告白もありだけど、本来はプロポーズのとき使うんだよ」
「この4人、ラヴリー・カルテットもみんなあそこで告られて、ゴールイン♪」
……ら?
らぶりー・かる、てっと? ……ですと?
やだもう、という照れも、
つまりね、という補足も、
自分で言う? みたいなツッコミすらもない。
ぎこちない笑顔でスルーするしかない、よね。
「あそこに女の子を呼び出して、ドアとブラインド閉めたら……
暗黙の了解で、“告白する”って合図なの。
OKだったら即公認でしょ」
オフィスの一角なのに?
そんな公序良俗に反すること、部長が知ったら……
「部長っていうか。まぁ、ぶっちゃけ社長も公認よ」
そう、なん、ですか。
「ほら、設計って女子の人数少ないし。激務でしょ?
よそでの出会いなんてないもの。
部内で、恋に発展するようなことがあったら、全員で応援する。
めでたく決まったら、祝福するのがルールなのよ」
だから――みんな、にやにやしてて。
チームの人がドアから、ど派手に転がり込んだんだ。
「逃げたコは初めてだけど」
首を竦めて、小さく縮こまる。
だって、いきなりすぎて。
「ジンクスが破られるって、みんな蒼褪めちゃってさ。
久我っち、すごい剣幕で怒られてたよ。ねえ?」
「そうそう、猪突猛進すぎる、とか」
「本能のまま動くな」
「ある程度イケるって確信してから、行動しろよ、ってね」
怒られても、ふてぶてしかったよね、という言葉に……
はっきりと画が浮かんで笑ってしまった。
ツンデレ
晴れて、チーム内公認の恋人となっても。
オフィスの久我チーフは、何も変わらず手厳しく、つーんとお澄まし。
周りのにやにやも、とことん無視。
「一時はどうなるかと思ったけど、よかったな~」
仲良しの同期に冷やかされれば。
「ああ、そーだな。
……そんなことより、手と頭動かせよ」
ぎろりと睨みつける。
「明日香! メール送ったから木曜までに、やっとけ」
いつもどおり、久我チーフから私に仕事の指示が飛ぶ。
明日香、だって。
やっとけ、だって。と。
周りに茶化されても。
「前と変わんねーだろ、僻むな」
素っ気なくかわして。
社内の風紀(?)を乱しているんじゃないかと、そわそわする、私。
残業に休日出勤。
てんこ盛りな業務は相変わらずだけれど。
それでも私がチーフのアシスタントでいる限り、二人のスケジュールはほぼ同じで。
残業後は、私のアパートまで一緒に歩くのが、ちょっとしたデートだった。
もともと浮かれた雰囲気のないチーム。
既婚カップル多しといえども。
……ううん。多いから余計。
公私混同は皆無。
決められていなくても、オフィスでは私語はない。
黙々とデータを解析し、図面を仕上げ、仕様書を作る。
淡々と業務をこなし、傍目には何も変わらないように映っていた、はず。
それでも……
以前と変わったことといえば。
少し、ほんの少しだけ。しかも、こっそり。
チーフが私に甘く、優しくなったこと。
「周りのヤツラ、うるせーけど気にすんな。
少し経てば収まるから」
ぽんと、頭に手を乗せて、少しかがんで笑顔を見せる。
「近い、ですよ」
熱い頬を押さえる私に、満足そうに目を細めて。
かと思うと。
仕様書の作成を教えてやる、と。
ふいに仕事モードの顔に戻す。
そのギャップにドキドキしながら、PCの前に座る。
「このセルをクリックすると、右下に三角が出るだろ?
それクリックで。
そう、そう。
データ入力したやつが、だーって出るから。
こっから選択すんだよ」
え、なんですか。これ? すごいっ!!!
はしゃぐ私をちらりと見遣って。
「エクセルにそういう機能があんの。
いいから、目をきらきらさせんな。
研究は後にしろ、先進めるぞ」
そんなにおもしろいか?
呆れ気味に呟かれ、頭をぽんぽんと撫でられる。
その温もりが優しくて。
心地好いな、って。見上げた途端。
「そんぐらいオレに興味持てよ」
耳元で囁かれ、思考がぼんっと破裂した。
それ以上に……プライベートでは甘かった。
「仕事以外の時はチーフって呼ぶな。
萎える」
会社を一歩出たら、腕組みして、そうのたまう。
でも、なんて、呼べば。
「最初は肩書きをはずすだけでいい」
肩書きを、はずす。
「……久我」
はずしたら呼び捨てで。
言った自分に、びっくりした。
ぶはっと吹き出して、私の頭を自分の胸に抱え込む、久我チーフ。
「可愛いな、お前」
予期できない“可愛いな”攻撃と、いきなりの密着に、かぴーんと固まる私。
そんな私に気づいて、わりぃ、と呟き、すっと力を緩める。
「敬称くらい付けろよ。どんだけ上からだ」
「久我、さん……」
そう、呟いたら。
ま、それでいい、と頷かれた。
「しばらくはそれで許してやる。けどな、最終目標は“勇人”だぞ」
なんて、ハードルの高い最終目標。
最終目標の達成期限はいつやってくるのか、不安に慄きながらも。
オフィスでは“久我チーフ”、プライベートでは“久我さん”とチェンジを心がけた。